胸のすくような啖呵の切れる飲み屋のおかみが少なくなった。
私が週に一度行く飲み屋のおかみは七十七歳で敗戦後から一人で小さな店を切り盛
りしてきた人である。彼女の少女時代は戦争の真っ盛りであった.彼女の住むこのあ
たりは西六社といって阪神工業地帯だったので徹底的に爆撃された。四貫島と呼ばれ
るこの一帯は完全な焼け野原だったという。そんな中で多くの人々は敗戦後何年も防
空壕で暮らしていたそうである。
彼女は敗戦後お父さんがなくなってから、この店をやり始めたのだからまだ少女時
代である。今でも童顔を残しているのだからあどけない少女のやっていた飲み屋はよ
くはやったそうことであろう。
四貫島と呼ばれるこの一帯は昔はリベットの職工や現場仕事の男達の住む荒々しい
労働者の町でその日の日当はその日の夜には飲み屋で消えるぐらいみんな金使いが
荒っぽく、活気に満ちていたという。しかしそんな連中も年をとり多くは死んでし
まって今はさびれた情緒のある下町となっている。客筋も阪神大震災での復興工事が
終わった頃から現場関係の男達が少なくなり、小商売人や昔からの常連が大体で近く
の民医連の人たちも昔からの客である。
私は20年前にこの近くで住んでいたので、毎晩のように通っていたが一人で飲むの
ではなく妻といつも一緒で、今でも一人でたまに行けば「嫁はんと別れたんか」とか
らかわれるのである。
「お母さん」とみんなに彼女は親しまれているがもともと労働者の中で飲み屋を
やってきたので物の考えは労働者的である。だから共産党の民医連もここを長年利用
し彼女も選挙といえばおにぎりや食べ物の差し入れを選挙事務所にしたり、生活守る
会の世話をしたりしてきた。その共産党が右傾化しブルジョア的になりこの店でも労
働者を見下げるようになってから内心では腹をたて、その分私のことが好きで引っ越
してから五年もたつのに毎週一回ある曜日に私達が行くのを楽しみにし予定に入れて
いる。
私達も彼女が七十八にもなりいつどうなるかわからないので彼女が死ぬまで行くつ
もりをしている。
彼女はこのごろの世の中を怒っている。
いったいどうなってるのや、このままやったらまた戦争やんか。
自衛隊がイラクに行くというのに共産党何やってるんや。私は戦争をこの体で体験し
てきたさかい絶対いやや。この辺でどんだけ人が死んだか知ってるか。あの千鳥橋の
駅前に空襲の後で死んだ人が山のように詰まれてたんやで。
それに、現場の人、このごろこんな店もきてくれへん。仕事があらへんのや。あっ
ちこっち店はつぶれるわ、このあたりの公園までブルーテントが建ってるんやで。
うっとこはおかげさんで何とかやってるけどたいがいの飲み屋は軒並みつぶれかかっ
てるんや。現場の仕事がないからそうなってるんやろ。
みんな腹も立たんのやろか。私、自爆テロでもしたいくらいやで。年言ってこんな
世の中になるんやったら死んだほうがましやった。
昔やったら三池闘争やら安保反対やらで、こんな状態やったら大騒動やったやん
か。
何や共産党なんか。ほんまは共産党が赤旗立てて先頭たってやらなあかんのに何
やってんのや。あの人ら金持ちになりよったさかいに貧乏人のために何にもせんよう
になったんや。このままやったら何の希望もないわ。戦争やで。どうすんの。
私は彼女の言うとうりそのまま書いている。
お母さんがどんなにやさしい人か。現場から落ちて怪我をしたり、仕事にあぶれて食
えなくなったり、奥さんが脳内出血で寝たきりになっている労働者などに弁当やおか
ずを作って毎日渡したりしているのを私は日常の風景としてみている。そんなことを
しているから儲からず八十になるまで店に立たねばならないのである。だが、気丈な
彼女も言葉と裏腹に弱ってきているのが私達夫婦には気になる。
こんなに労働者が好きで、戦争の嫌いなひとだから、戦争に賛成するようなことを
言ったり、朝鮮人を差別するようなことを大きな声でいったりすれば、絡んだり、く
だをまく酔っ払いにするように一声の啖呵で追い出されるであろう。
「あんた、帰りっ」
そのうえ、お絞りが飛んでくることは請け合いである。啖呵を見事に切れる女は必
ず頭が切れる。切れ味のよい啖呵を飛ばす女が減った。
だから私はお母さんにそんなことのあったあとの後日談を聞くと「伝法の女」とよ
んでやる。すると彼女はにっこり笑う。
伝法とは勇み肌のことであり言葉の由来はこのあたりから出ている。勇み肌といっ
ても語彙の少ない人はわからないので辞書をひいてほしい。伝法と引けば勇み肌と出
て、勇み肌と引けば伝法または鉄火と出れば何のことかわからない。
関東では「鉄火女」という。鉄火の彼女の小気味いい啖呵に溜飲が下がる。まだお
絞りが飛んでこないのを幸いにしなければならない。
そのうちモニターからお絞りが飛んでくる。 ゆでがえる。でていけ!
鉄火さん。もういいよ気にしなくとも。啖呵もタイミングで今ごろどうのこうのと
いう人、もう遅いや。男はさっぱりしていなくちゃならん。
えっ、 男って、どこにいるの