再び山田盛太郎氏の投稿に同意する次第です。「共産党の排他主義は悲しいことに共
産主義それ自体が含んでいるのです」この定義に尽きると思います。現在の「党」を
死守しようとする人もまたこのサイトに集われている方のように「何とかしなければ」
と思われている方もこの言葉を重く受け止めなければならないと思う。
この定義を乗り越えようとする時、それが集団であれば「反党分派」に問われる事は
避けられないし、党内で同志を募れないなら個人が離党して行くしかない。どこまで
突き詰めてもこの事実は変わることは無いのである。
私が共産党がすでに歴史的役割を終えたと度々主張するのはこの事実によるのである。
この排他性の源であるのは言わずと知れた「民主集中制」である。しかしことは民主
集中制を廃止すれば事足りると言うものではないのである。「共産主義それ自体が含
む排他主義」の全体像と面と向き合わなければならなかったのである。
その歴史的機会こそが東欧・ソ連の社会主義体制崩壊時であったのは言を待たないで
あろう。あくまで仮定の話であるがもしそこでその作業が行われていれば必然的に
「共産党」は否定され解体の過程を経ることになったであろう。しかしその時に正当
にその作業が行われていればその否定される組織の中から新たな政治勢力の「息吹」
が生まれ出る可能性は大いにあったであろう。有効な「政治的遺産」もあったはずだ
しそれを受け継ぐ新たな「組織」の萌芽もあったかもしれない。
しかし今となっては遅い。現指導部の新綱領は彼らなりの「党改革」であるが如何せ
ん国民の間に現実的影響力を持つことは無いであろう。孤高の道を行くことは自由だ
がそれは永遠の政治的マスターベーションである。不破議長、志位委員長始め共産党
幹部も含めて日本国民の誰一人として共産党が政権に就けるとは考えていないことが
その証であろう。このような政党に何の存在意義がるのであろうか。今後数十年に渡っ
て共産党流「資本主義の枠内での改革」の旗を掲げてこの党は孤高の道を歩むのであ
ろう。政権につく当ても無く存在し続けるこの党の存在を国民はいぶかしく思いなが
らもやがて忘れ去って行くであろう。そうだとすればそれは「共産主義の持つ排他性」
の当然の報いである。
またこれも仮定の話であるがこの「さざなみ」のような方々が仮に首尾よく「党内反
主流派」を纏め上げて党執行部に就いたとしよう。だがそれはまた新たな「党内権力
闘争」の始まりとなるであろう。この道をたどったとしても国民はやがてこの党を見
放していくであろう。これもまた「共産主義自体が持つ排他性」の当然の帰結なので
ある。
どっちに転んでもこの状態である。私はこのサイトが果たした歴史的役割をそれなり
に認めるものである。なぜなら共産党内で党中央以外に党を横断的に繋ぐことの出来
る勢力は無いからである。このサイトは唯一その役割を果たして党内に横断的発言の
場を提供したと思う。しかしそれもそこまでであろう。この場を反党中央の戦場にす
れば党中央は本気でたたき潰しにかかかるであろう。
つまり山田氏の指摘の通り共産党は「共産主義それ自体が持つ排他主義」のために滅
びざるを得ないのである。唯一それを乗り越える道は一人の個人に帰ってその「排他
主義」を直視するしかない。そのような多くの個人が生まれて党を去る時初めて「共
産党の排他主義」は乗り越えられるのだと思う。
その作業は必ずや日本の民主主義にとって必要でありまた有効な作業になるであろう
と私は思う。それこそが日本における共産主義の「歴史的克服過程」になると私は思
うのである。