日陰のもやし氏の投稿からの引用は「」で、私の前回の投稿からの引用は『』で表記します。
私は前回の投稿でまず、政権の獲得こそが政党の至上の価値である、という日陰のもやし氏の見解に疑問を呈しました。
なぜなら私は、そのような政権獲得至上主義こそが、共産主義の腐敗と堕落をもたらしたと考えるからです。
だからこそ私は、政権の獲得・維持を至上命題とするような共産主義の、腐敗と堕落の実例として、共産圏の共産党を例としてあげたのです(この点は前回の私の投稿をもう一度お読みいただければ、十分理解していただけると思います)。
要するに私は、読んでいただいた方が「当然「これらの共産党を手放しで評価してしまって」いいわけがあるわけ無いでしょう!」といった反応をしてくださることを当然の前提として、共産圏の共産党の例を挙げたのです。
したがって、私が「真性の「独裁国家」と今日の日本における政権獲得の可能性を…比較」している、とする氏のご指摘は、まったくの誤解に基づくものです。
私がここで問題としたのは、日本と共産圏の比較などではなく、もっぱら政権の獲得とその維持に目的を矮小化した政党や政治運動の危険性についてなのです。
(ちなみに、「皮肉な見方をすれば自民党も1955年以来約半世紀に渡ってほぼ「一党独裁」を続けてきた」といえるようなあり方でさえも「かつての「共産圏」よりはるかにまし」であり得たのは、「政治的自由を始め諸権利が保障された社会において「民主主義的な選挙」」が行われていたからといえるでしょう。しかしそれは、「政治的自由を始め諸権利が保障された社会」と「民主主義的な選挙」が、政権獲得・維持を至上とするような政治勢力の『腐敗と堕落』を、少なくとも「かつての共産圏」よりはるかにまし」な水準で押しとどめる役割を果たした、ということであり、政権獲得・維持を至上とするような政党・政治運動が腐敗・堕落しかねないことを否定するものではないはずです。)
私は前回の投稿で、共産圏の共産党が『圧倒的多数の国民に支えられて政権に就き続けた』と書きました。
どうやら氏はこれを、私が“圧倒的多数の国民に支持されて”といっているものと解釈されているようですが、それも誤解です(このような誤解をされたからこそ、氏は「旧共産圏、とりわけ旧東欧諸国はソ連の占領地域においてソ連軍の武力を背景にして少数派だった各国の共産主義者党が政権を“強奪”したもの」「「圧倒的多数の国民に支えられた政権」は「圧倒的多数の国民を政治的に軍事的に弾圧することで維持された政権」だった」といった「小学生でもわかる」歴史講義を、改めてしてくださったものと思います)。
しかしながら、私は「支えられて」という言葉を“支持されて”と同義として使ったのではありません。
“弾圧”という事態は弾圧“する側”だけでは成り立ちません。弾圧“する側”と弾圧“される側”がいて初めて“弾圧”という事態が成立します。さらに、弾圧によって相手を“屈服させる”には、弾圧する相手=弾圧“される側”が存在し、かつその相手が弾圧によって屈服“してくれなければ”なりません。
一党独裁は一党だけでは成り立ちません。そこには一党独裁を成立させるだけの構造が必要です。
このことは、鬼ごっこの例えを使えば「小学生でもわかる」ものとなるでしょうか?
鬼ごっこの最中に一人や二人が抜けたとしても、鬼ごっこは継続するかもしれません。しかし、鬼一人を残してほかのメンバー(逃げる側)全員が別の遊びを始めてしまうなり、それぞれ家に帰ってしまうなりしたら、鬼ごっこはもう成立しません。そのような事態を、鬼のようなガキ大将が強権によって阻止していようと、参加メンバー全員の民主的手続きを経た合意によって防いでいようと、そこに鬼ごっこという遊びが成立しているのであれば、それは参加メンバーが鬼ごっこ成立の要素として、鬼ごっこという遊びの成立を“支えている”のです(そういえば「真性の「独裁国家」」においては、独裁“体制”への忠誠強要と並んで“国家”への忠誠強要=愛国心の鼓舞も盛んに行われました。これも鬼ごっこの例えを使えば、“体制”への忠誠強要は鬼ごっこという遊びへの忠誠強要、愛“国”心の鼓舞は鬼ごっこという遊びを可能とするだけの仲間意識の形成、といえるでしょう)。
私が(「共産党に対抗しようとする人々が少数派にとどまり続けたことで」という留保をつけて)共産圏の「真性の「独裁国家」」が『圧倒的多数の国民に支えられ』ていたと言ったのは、圧倒的多数の国民が、そのような独裁国家の成立を可能とする構成要素として長らくとどまり続けた、というだけの意味なのです。
しかし、誤解に基づくもので、前回の私の投稿への指摘としては不適切なものであっても、共産圏のような「真性の「独裁国家」」において政権に就く(あるいは社会変革を目指す)ことと、「政治的自由を始め諸権利が保障された社会において「民主的な選挙」」が行われている中で政権につく(あるいは社会変革を目指す)こととの間には大きな差異がある、という氏の指摘自体は、きわめて重要な視点といえるでしょう(一例を挙げれば、戦前に採用された民主集中制を今だに維持していることに何の意義があるんだ、という日本共産党への批判は、このような視点に立つものといえるでしょう)。
ただ一方で氏は、以前の投稿において「共産主義そのものがもつ排他性」ゆえに
「民主集中制を廃止すれば事足りるというものではないのである。」
「「さざ波」のような方々が仮に首尾よく「党内反主流派」を纏め上げて党執行部に就いたとしよう。だがそれはまた新たな「党内権力闘争」の始まりとなるであろう。この道をたどったとしても国民はやがてこの党を見放していくであろう。」
要するに、仮に日本共産党内において党員の「政治的自由を始め諸権利が保障され…「民主主義的な選挙」」が行われ、かつ、これまで党内で反主流派とされてきた人々が執行部につき、反対派を強権を持って排除するのではなく全党員規模での公明正大な形での「党内権力闘争」が活発に行われたとしても、何の意味もないかのように述べられており、それを受けて私が、共産党がそこまで変わったという想定と比較してさえも、資本主義を犯すべからざる原理であるかのようにみなして政権の奪い合いを繰り広げる「資本主義体制ない権力闘争」的あり方のほうが、より優れているといえるのか、と問いかけたにもかかわらず、何の回答も寄せていただけませんでした。 氏にとっては、国家や組織において「政治的自由を始め諸権利が保障され…「民主主義的な選挙」」が行われているかどうかよりも、共産主義を標榜しているか否かといったことのほうが、はるかに大きな判断基準になるのでしょうか。 あるいは視は、任意の結社に過ぎない政党内の執行部形成のあり方と、一国における政権獲得のあり方を同列に論じることはできない、というお考えなのでしょうか。 仮に後者だとしたら、それは、日本共産党が使う“民主集中制を国の制度や社会のルールとして押し付けることはありません”というダブルスタンダード的弁解と、理論構成上の差異は無いでしょう。
さて、私は前回の投稿の前半のまとめとして、ローザ・ルクセンブルクの言葉を引用しました。しかしそれは、何も氏の心に響かせることで、氏から共産主義への情緒的好意を引き出すためなどではさらさら無く、この言葉がまさに、共産圏の一党独裁体制への批判、それこそ『社会体制の根底を衝こうとする』本来の目的を忘れ、『中央の公的権力』の構成を(「とりわけ旧東欧諸国…(では)…ソ連軍の武力を背景にして」)自らと入れ替え、よりいっそう抑圧的なものとするような共産主義への、痛烈な批判としての意味を持つと考えたからなのです。
私はこの言葉から何かを説明したかったのではなく、説明するまでも無く以上のような意味を汲み取っていただけることを前提として、この『言葉を氏はどのようにお考えになるのであろうか?』と、問いかけたのです。
「政権に就く意思の見えない政党もまた国民の期待を裏切っていると言えるのではないでしょうか。私には共産党はその典型に見えます。」
と氏は述べられていますが、仮に、共産党が国民の多数に政権に就くことを期待されながら「権力が影に日に共産党を弾圧し一般国民(を)「反共毒素」(で)冒」そうとしている、とでも言うのなら、確かに、そのような権力側の策動に屈して「政権に就く意思の見えない」「共産党の戦略的戦術的無策」は、明らかに国民の期待を裏切るものでしょう。
しかし現実は「政治的自由を始め諸権利が保障された社会において「民主主義的な選挙」を経て」、共産党は政権につける位置から遠く離れているのであり、それは国民が、共産党が政権に就くことを望んでいないことの、何よりも明白な証明なのではないでしょうか。
また、共産党を支持している人でも、おそらくその大部分は、いわば“各論賛成、総論反対”的立場からの支持であって、必ずしも(少なくとも今すぐ)政権に就くことを期待しての支持ではないのではないでしょうか。
ない期待を裏切ることはできません。
共産党の持つ「問題点」とは、少なくとも、政権についてほしいというありもしない国民の期待を裏切っているからではない、ということだけは確かです。むしろ、より政権に近い位置に向かおう、議会内でより優位な位置を占めようとして(それ自体はなんら否定すべきものではないのですが)、政党としての原則や政策をないがしろにするような「戦略的戦術的無策」、あるいは(氏から見れば無駄に思えるでしょうが)民主集中制を改め、党内民主主義を確立することの必要性、などが共産党の「問題点」であり、そこに、国民から政権に就くことを期待されない要因もあると私は考えます。
さて氏は、「あなたの論からは政権に就こうという意思はもとより本当にこの国で困っている人々をはじめ真面目に働く人々のために現実的な何らかの政治的努力をしようとしているとはとても思えません。」とも述べられています。
私が、共産党が政権に就くことを望んでいない、というのはまったくご指摘のとおりです。私はそれほど共産党を信頼しているわけでもなければ、共産党が政権に就くというそのこと自体をもってして、今日私たちが直面している社会的危機を克服できると考えるほど、楽観的ではないからです。
ただ、その後の部分のご指摘には、氏に誤解があるものと言わざるを得ません。
たしか氏は3月3日付投稿「革命的再生はない!」の中で、共産党から自らの意思で離れていった人々が「必ずや日本社会の民主主義的発展のために各分野で必要な人材として活用される道があるものと思う。」と述べられていたはずです。「日本社会の民主主義的発展のために各分野で必要な人材として活用される」とは、とりもなおさず「本当にこの国で困っている人々を始め真面目に働く人々のために現実的な何らかの政治的努力をしようと」することのはずです。
私はこのような「努力」を何一つ否定していません。
それどころか、このような「努力」こそが、共産主義の本来あるべき姿として、私は積極的に評価します。
私が引用したマルクスの言葉、「現状を止揚する現実の運動」とは、まさに氏の言われるような「努力」、資本主義という現実の中での「悪戦苦闘」にほかなりません。
この点で氏とマルクスとの間に相違点があるとすれば、それはただ、このような「努力」を『共産主義と名づけている』か否か、という一点だけです(ただ私としては、共産党の革命的再生を目指すことで、人々が共産党を離れずとも、そのような「努力」が可能となる状況を作り出す、という道は、可能な限り探るべきだとも思いますが)。
したがって共産主義にとって資本主義とは『潔く認める』などという次元を通り越した存在、「悪戦苦闘」のその相手であり、「悪戦苦闘」を繰り広げるその戦場であり、何よりも共産主義が生まれ、育ち、生きていく場所に他なりません。
それに氏の言われる「困っている人々…真面目に働く人々のために」「各分野で」「何らかの政治的努力を」する、とは、必ずしも政権の獲得を目指すことだけを意味するものではないはずです。それは何よりもまず、労働運動や住民運動を始めとした草の根から地道に積み上げられた社会運動をさすのではないでしょうか。
私はそうした「努力」こそが、政権獲得を目指すことよりも“先行”しなければならないと考えています。
政権の獲得を目指すことは、こうした「努力」の付属物の一つであるべきなのです。
氏は「遠い遠い未来において人類社会はやはり「共産主義社会」になるのではという予感を持ってい」らっしゃるとのことですが、その際氏は、そのような社会が「資本主義社会を人間本位に合理的にコントロールできる能力身に付けた人々によって」建設される、と想定されています。
これは社会を構成するすべての人々が「資本主義を人間本位に合理的にコントロールできる能力を身に付け」、社会を構成するすべての人々の参加と民主的な共同によって、氏の言われる「共産主義社会」が建設される、ということでしょうか?
それとも「資本主義社会を人間本位に合理的にコントロールできる能力を身につけた」“特定の”「人々によって」、「共産主義社会」が建設される、ということなのでしょうか?
もし仮に後者だとすれば、それは「現存した共産主義国」を生み出した発想、特定の“真理の体現者たちによって”正しく建設される社会という発想と、(その発想において)ほとんど変わらなくなってしまうでしょう。
この二つの間に強いて違いを見つけるとすれば、「現存した共産主義国」においては、その発想は惨めかつ残酷な失敗をさらしたが、「遠い遠い未来…(の)…「共産主義社会」」においては、その同じ発想が(想定上)成功している、という点だけでしょう。
無論あれほどまでに的確に「現存した共産主義国」を批判された氏が、後者のような考え方をするなどあり得ないことですが、ただ文章上、そう取られかねないように思えましたので、蛇足ながら指摘させていただきました。
氏は「私は修正資本主義で十分ですよ。よりよく修正するために政権に就こうと人々に心を開き最大限努力する政治勢力を私は支持していこうと思っています。」と述べられていますが、本来問題とすべきなのは、氏が個人的に「修正資本主義で十分」と思うかどうかなどではなく、氏にとって「十分」と思えるような「修正資本主義」とはどのようなものなのか、そしてそれをどのように実現していくか、氏が支持するに足る「(資本主義を)よりよく修正するために政権に就こうと人々に心を開き最大限努力する政治勢力」をいかに形成するか(いかに形成されるべきか)といった点であるはずです。
氏が、単なる決意表明にとどまらない、真剣な検討の成果を投稿してくださることを期待します。
最後に、氏の投稿の主旨に直接かかわるとはいえないものの、二、三気になる点が見受けられましたので、それについて私の感想を述べさせていただきます。
「あなたがもし「日本共産党員」で自ら共産主義者を任じておられて党の内外でそのような認識で行動されているとしたら私には日本共産党も共産主義の思想も全く必要のないものとして切り捨てます。」
高々私のようなものが、仮に日本共産党員であったり共産主義者を任じていたりといった程度の、取るに足らない理由で、日本共産党や共産主義思想までも「切捨て」てしまうというのは、あまりに早計に過ぎるのではないでしょうか。
そもそも特定の結社や思想を問答無用で「切捨て」てしまうような態度が、果たしてどれほど説得力のあるものなのでしょうか。
そのような態度は、氏が正しく批判された共産圏の「真性の「独裁国家」」において、異論や批判を粛清や弾圧によって力ずくで「切捨て」るありかたと、その発想においてそれほど遠く隔たったものといえるのでしょうか?
「他人に何かを説明するときそのような言説(「過去の人間(共産主義者や理論家であるといわれた人々)の政治言語」)から始める人を私は最も軽蔑します。」
ある事柄に対して、人がどのような情緒的反応を示そうが、それは他人からとやかく言われる筋合いのものではありません(もっとも、それをわざわざ公表する必要があるのか、という点は置くとして)。
しかしながら、氏が「軽蔑」の念にとらわれるあまり、引用された「過去の人間…の政治言語」それ自体がもつ意味や、全体の文脈の中でその引用が持つ意味についての冷静な検討を欠くのであれば、そこにどれほどの説得力があるのでしょうか。
批判には「軽蔑」の念を踏み越えた冷静で理論的な考察こそが必要なはずです。
追伸
私の「論からは…本当にこの国で困っている人々を始め真面目に働く人々のために現実的な何らかの政治的努力をしようとしているとは思え」ない以上、私に「真性共産主義者」の名を贈るのは、あまりにも荷が重過ぎるというものでしょう。
ここに謹んで返上いたします。