「問題はもはや社会主義か資本主義か、ではありません。人間の顔をした資本主義か、競争万能の資本主義か、なのです。」とありますが、山田氏は資本主義を不変の、自明の“前提”としてお考えなのでしょうか。
だとすれば、それもまた山田氏自身のおっしゃる「原理主義」と、何ら変わる所がないのではないでしょうか。
「政策の評価などを」、資本主義を自明の前提としそれに「照らして評価する行動様式が、いわゆる「宗教結社」のような違和感を感じさせないのは、それがただたんに“政治的多数派の宣言”に過ぎないからではないでしょうか。
このようなあり方と、山田氏の批判される「原理主義」との違いとは、多数派に認知されているかどうかの違いにすぎないのではないでしょうか(たとえばイスラム諸国で一夫多妻が多くの人々に違和感を感じさせないのと同じように)。
山田氏は「終身雇用を維持してきた日本のある時期までの企業は、まだましなのです。」と述べられていますが、なぜ「終身雇用」などの日本の企業の「ましな」状態は、「ある時期まで」しか維持できなかったのでしょうか。
もちろんそこには、左翼陣営の原理主義的・官僚主義的あり方が、各種運動を分裂、縮小させたという要因もあるでしょう。しかし、資本主義が本質的に内在している諸矛盾の影響については、山田氏はなぜ考慮なさらないのでしょうか。
今日日本の資本主義と企業もまた「暴力的な市場万能主義」的あり方を追及していますが、それは「暴力的な市場万能主義のアメリカ・イギリス資本主義と企業」との競争を絶えず強いられ、その競争に生き残るためという資本主義的要因によって引き起こされているのではないでしょうか。
そもそも「日本のある時期までの企業」の「ましな」あり方さえもが、(その全部がとは言いませんが)国際的に見れば先進国と発展途上国との間の途方もない経済格差、それこそ地球規模での資本主義の「暴力的な市場万能主義」「競争万能」的あり方に支えられたものではなかったでしょうか。
「ある時期まで」はもっぱら先進“国”と発展途上“国”との間における資本主義の「暴力的」あり方としてのみ存在していたことが、いまや先進“国内にまで”持ち込まれている、という点にこそ、今日私たちが直面している資本主義の現実があるのではないでしょうか。
資本主義そのものが内在している諸矛盾に目を向けることなく、資本主義を自明の前提とし、資本主義そのものと衝突し、突破しようという試みを全否定する言説が、果たして山田氏の言われる「原理主義」者たちの言説以上の説得力を持ちうるのでしょうか。