党員討論欄でメロディー・ネルソンさんが共産党の死刑容認について嘆いておられました。その意見には同感しますが、この機会に私が考えた死刑廃止の論理も述べておきたいと思いました。
なぜわざわざそんなことを書くのかというと、私もオーム事件のとき、こんな人間がいるのなら死刑もやむをえないのではないかと、ずっと保持していた死刑廃止論を捨てかけた時があったからです。しかしある事例を知ったことで、より確固とした死刑廃止の意見を持つようになりました。その間の愚考に興味をもたれる方も、あるいはおられるのではないかと思ったからです。
私がそれを考え直したのは、私の東京の友人二人(解放同盟関係の女性)が行っている死刑囚救援活動を知ったからです(私自身はカンパでしかかかわっていませんが)。死刑を宣告された被告は(東京地裁で死刑判決を受け控訴中)、関東のある県で強盗に入り老夫婦を殺した、若い中国人です。この事件は、被告人は強盗団の首領ではなくもう一人の中国人強盗の子分であったこと、老夫婦の一方の男性の死にその人の持病がかかわっており、被告の暴行のみが原因と断定もできないこと、被告の人生が故郷を追われ家族もなく異国(日本)に流れてきて悪い仲間に感化されたという苛酷なものであったことなどから、現行の法慣習から言えば死刑と終身刑のボーダーラインにあたるケースだと思われます。
しかし一審の国選弁護人は実におざなりな弁護活動しか行わず、裁判所もあっさりと死刑判決をくだしました。私の友人二人が救援活動を始めたのは一審判決後のことです。
私はこの中国人死刑囚の苛酷な人生に同情を感じざるをえませんでした。もちろん人の命は重く、それを奪った罪をつぐなうのは当然のことだと思います。しかしこの人がもし日本人だったら、あるいは国選弁護人や裁判官がもっと人間的な人であったら、若くして生命を絶たれるような事態にまでいたったろうか大いに疑問を覚えました。
これが私に、やはり死刑制度は廃止されるべきだと考え直させた事例です。私は「ある犯罪は死刑に値する」という倫理的判断と「死刑制度が制度として妥当か」という社会的判断は別個に考えなければならないと思いました。死刑と終身刑の間には絶対的な断絶があります。死刑制度を是認することは、その「絶対的な断絶」が非常に偶発的な事情によって(例えば国選弁護人の人間性)によって左右されることを認めることになります。死刑とは「法のもとでの平等」という近代法の根本精神と矛盾する制度だと私は確信しました。
私のようないいかげんな人間でなく、死刑制度をまじめに考えてきた人にとっては、何をいまさらといった意見かも知れませんが、先にも述べたようにあるいは興味を持たれる方もおられるかも知れないと思い、愚考を記させてもらいました。