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三勝一負、一引き分け

2004/3/6 天邪鬼、画家

 目がさめてから水ばかり飲んでいます。昨日のデモ行進で喉を、をからしてしまったのか。物を言えばハスキーなこえになっているのです。
 昨日は大阪で個人加盟の労働組合の大会があって私は妻に誘われて会場にゆきました。
 妻は500人規模のゼネコン会社の事務員として十五年働いていたのですが全国的な規模の公共投資が、この十年間激減したため大手の企業以外は生き延びられなくなり、妻の会社も二年ほどまえから受注が減って一昨年暮れから希望退職を募り始め、退職勧奨が激しく進められていました。
 私はある個人加盟の労働組合の人に相談し妻をその組合に加入させました。会社にも組合はあるのですが完全な御用組合です。合労の指導のおかげで何とか退職勧奨をはねつけ250人にまで減った会社の社員に残ったのですが、会社の経営はさらに悪化し主力銀行が手を引いたとたん倒産状況になりました。独占資本が金融を通じて経済を支配する典型です。会社更生法で何とか生き残ったものの、3月末までに従業員を100人にまで減らさなければ裁判所が会社更生法の適用を認めないので、事実上の倒産になります。
 期限内ならば若干の退職金(妻の場合ならば250万)を支給して辞めてもらうが、期限以降なら支払わないということで今次々としゃいんは辞めていっているものの、それでも目標に達しない場合は予告手当てを振り込んできて解雇になります。
 私の妻は56歳になるのでビルの窓拭きとか掃除婦、コンビニのパートだろうとどこにも就職口もないもないので解雇になれば戦うしかありません。いよいよ正念場にきたので合労も真剣になってくれています。
 昨日はその組合の春闘大会だったのです。千人ほどの労働者が一堂に決起集会をやりデモに移ります。決起集会には国労の組合幹部によって警察に放り込まれ一年間豚箱に放り込まれて最近保釈された四人の労働者が挨拶にきていましたが、非常に感激的でした。彼らの投獄には日本共産党が噛んでいます。彼らは1047人のなかまの解雇に反対したがゆえに彼らの組合幹部が国家警察と結託し投獄されたのです。粗野で朴訥な労働者達が次々に壇上から彼らの現場の戦いを報告しイラク戦争反対を訴える迫力は、いつもの市民運動の反戦集会と違う無骨さの中に絶対に退かない頼もしさを感じさせるのでした。
 妻もその団結の中にひとりでに入ってしまっているようでした。やっぱり反戦闘争のバックボーンは労働者階級でなければならない、私は改めてそう思いました。
 今は共産党も労働運動から手を引きしゃかいとうも総評もなくなったので労働者階級の権利がどんどん奪われてきています。戦争方がやつぎばやに成立しついに戦争国家となりえたのは労働者が団結した戦えなくなったからです。しかし階級闘争が壊滅したように見える中からこうして新たにさらにたくましく雑草たちが芽を出し成長してきているのです。その陰に不退転のかたがたの努力があったと想像すればやはりこの日本も捨てたものではないという気がします。
 集会が終わりいよいよデモ行進です。
 「あなた歩けるの」 
 「うんここまできて、デモをやらんと帰れるもんか」
 先頭が道路に出てまだ出発できないで、入り口に固まった大勢の労働者の中でもまれながら、夫婦は言葉を交わしました。  「だがこの年になってまでデモに出なければならんなんていかんなー」
 そういうと、横にいた労働者が
 「何歳ですか」 
 「67歳ですよ。若い人々ががどんどん出てきたら僕は降りたいよ」
 また別の人が言うのでした。
 「本当です。もっと若い人たちが戦いにたくさんきてくれるようになってほしいですね」
   「この人、デモが好きなんですよ」
妻が茶々を入れます。
 「あはは、好きなのさ。二十才から四十七年やってるなー。」
 やがて私達は四列縦隊になって北浜通りを御堂筋のほうに歩き始めました。久しぶりに林立する赤旗に包まれ夜のビルの谷間を長い行列になってシュプレヒコールを叫びながら進みます。
 しかし今度のデモのは前のときの二倍の距離で、私は次第にシュプレヒコールを叫ぶよりもみんなについていくのがやっとという状態になってきます。すると帰って周りの人々の声が聞こえてその雰囲気に浸ってしまいます。初めて参加する妻が「イラク戦争ハンターイ、自衛隊を返せー。04春闘に勝利するぞー」叫んでいるではありませんか
 アメリカ領事館まで何とか私は歩いてきたが、そこで「アメリカはいらくからでていけー」と大声をあげてから
 「もう、あかん。離脱しよう」
と妻に言って隊列を離れましたした。
 そしてデモ隊に手を振って妻と大阪駅のほうに足を引きずって歩きました。妻は歩道のわきにわたしを座らせ、私の足の疲れが取れるのを待ちました。
 「三勝一敗、一引き分けだ。今夜のは引き分けにしておこう」
 イラク戦争が始まった日に矢も盾もたまらずともかくアメリカ領事館に行って一人でも抗議してやると急いでプラカードを作って行動をして以来五回目のデモでした。そのうち一回は脱落し今回は引き分けでした。大阪駅まで何度も路傍に座り込みながら何とか電車に乗り込み夜遅く家にたどり着きました。あーしんど。
 だが日比谷はなんとしても行きたい。それこそ車椅子を押してもらってでも行きたいのです。火の鳥の中へ!

 ナヌ、寄らば大樹の陰さん。
 共産党は日比谷を避けたというのか。
 日本共産党は何を恐れているのか。
 どこかの公園で葬式行列でもしたいのか。

 すべての日本共産党員に訴える。 
 3月20日 
 日比谷に結集せよ!