天邪鬼さんは、私へのご返信において、本サイトにおける様々な議論について、生産的な含意をもたらさないばかりが、投稿者に疲弊感を味わせてしまっている点をご指摘され、強い危惧感を示唆されました。私は、この指摘に大いに共感します。
その上で、天邪鬼さんは、私に対して、こうした帰結が、日本的なものなのか、どうかご質問されています。私は、このご質問に対して考えたことを、述べてさせて頂きます。
私の意見は、「こうした不幸な結末の原因は、イデオロギー的アプローチの弊害であると同時に、日本人の特性に基づくものでもある」というものです。
(イデオロギー的アプローチ)
社会科学および人文科学の領域において、絶対的真理は存在しません。各研究者は、仮説を提示し、その仮説を「論証」すべく、歴史的事実やデータを提示しつつ、論理的な主張を展開してきました。その中で、もっともらしいものは、「理論」と称されるに至ります(経済学の世界では、論理性を強化するために、数学が多用されており、これが数学の苦手な学生の経済学離れを助長している次第です)。ただし、注意すべきは、文系の学問領域には、理科系学問に存在する「太陽は東からのぼる」、「水は上から下へ流れる」といった、何人も否定できない「法則」は存在しないということです。
あるテーマに対する、イデオロギーに依拠したアプローチは、こうした文系の学問領域において、大変便利であると同時に、危険なものです。便利な点は、あるテーマについて、研究者に、「○○○なのではなかろうか?」という仮説を思いつき易くすることです。
しかしながら、仮説を論証する際、イデオロギー的なアプローチでは、論理性をもたせるのに大変苦労します。単純化のための安直な例ですが、イデオロギー的なアプローチでは、仮説を提示した後、「AだからBで、BだからCであり、そしてCだからDなのだ。よってわが仮説は正しい!」と論証する場合、「BだからCなのはなぜですか」という問いかけに、「私は右翼だから、そう信じているのです!」、「私は左翼だからそう信じているのです。マルクスだってそういっているのだから!」と回答する可能性を高めてしまうのです。それでは、そのイデオロギーを信じていない人は、その回答に論理的な確かさを感じないことでしょう。左翼の弁護士たちは、この点で大変ご苦労され、イデオロギー以外の方法で、それを乗り越え、一定の業績を残されている筈です。
(私は、マルクス経済学者ではありませんが)マルクス経済学の分野でも、イデオロギー的なアプローチでは、マルクスの提示した仮説をサポートできない場面がたくさんありました。「利潤率低下の法則」は、置塩信雄氏という日本人経済学者によって、「労働価値説」はP.スラッファ氏というイタリア人経済学者によって、それらの妥当性・必要性が疑わしいものであることが、数学的に証明されてきました。また、宇野弘蔵氏は、マルクスの「資本論」が執筆当時の時代背景や彼自身のイデオロギーによって制約されている面があることを指摘し、資本論に基づいて、純粋な形の「資本主義経済」の原理を提案してきました。こうした生まれた宇野学派は、伊藤誠氏による積極的な広報活動のおかげで、ロンドンやケンブリッジにも知られており、その立場に共感するマルクス経済学者が、英国にもすくなからず存在します。
他方、イデオロギー的なアプローチによる仮説の論証は、市井における、閉ざされた小規模な議論において、大きな副作用をもたらします。すなわち、イデオロギー的なアプローチにたった瞬間、異論・反論は、自己のイデオロギーに沿って判断されがちですから、左(右)翼の人は、右(左)翼の人の意見はもとより、そうしたイデオロギーをそもそも信じていない人の意見をも受け入れる必要性がなくなるのです。
これを反映して、左翼の人は右翼の人を「保守反動」とののしり、逆に、右翼の人は左翼の人を「アカ」とののしります。また、左・右双方が、イデオロギー的な背景のない人を、啓蒙し、教育すべき、と考えるに至りがちです(私は、かなり以前<不破氏が党首だった頃>、国政選挙で敗北した同氏が、公明党がばらまいた悪質なビラをキャスターの前で持ち出し、「これに国民がだまされた!そしてわが党は敗北した」と叫んでいるのを茶の間で目撃しました。これをみて私は、「イデオロギーに依拠する人は、国民をバカだと思っている人が多いんだなー」とつくづく感じた次第です。公明党がばらまく、いかにもいかがわしい反共ビラでもって、投票行動を変えるようなアホな国民はいないでしょう。いたとしても、党首が語るべき共産党敗北の主要因では絶対にない筈です)。
こうして、イデオロギー的アプローチは、ほとんど同じイデオロギーに依拠する者の間でしか、含意ある議論をもたらせなくなってしまう可能性を高めるのです。
(日本人の特性)
日本人の特性に基づくものとは、多くの普通の教育レベルの日本人が、discussionとargumentの峻別を意図的につける訓練を受けていないことです。両英単語とも、「議論」など、同じような日本語訳が付されています。
私の手元の英英辞書では、discuss(discussionの動詞形)とは、「to talk about sth with other people, especially in order to decide sth」と定義されています。他方、argue(argumentの動詞形)には、「to give reasons why you think that sth is right/wrong, true/not true, etc., especially to persuade people that you are right」という定義が与えられています。日本語訳は、前者は「他人となんららかのテーマを“語り合う”こと、特になにかものごとを決定するために」、後者は「あることが正しいあるいは間違っている、と考えている理由を“明らかにする”こと、特に自分が正しいことを他人に納得してもらうために」。
1つの議論の中で、いくつかのargumentがでてきます。それが気に食わなければ、自分なりのargumentを展開しなければなりません。注意すべきは、その場が、「discussion」である以上、自分のargumentを一方的に言い放すだけではだめで、やはり「なにかものごとを決定するために語り合い」に資するものでなければなりません。この点を理解しないと、議論は発散する可能性が高まります。
日本の学校教育では、議論の発散を防止するための「discussion」作法をフォーマルな形で取得する機会が少ないです。また、たまの話合いにおいても、調停人である先生が存在しますから、発散は防止されやすく、「議論を発散させない」必要性を感じることは少ないでしょう。
また、議論が発散することを防止する重要性は、意見が多様な中でこそ認識されます。そもそも発言がすくなかったらどうしようもありません。
さらに、天邪気さんが仰るように、『日本人は大体無口を尊ぶ伝統があり「以心伝心」とか「腹芸」とか、「一を言って十を悟らねばならない」』のであれば、「argument」は存在しても、それが良き「discussion」には発展しないでしょう。
議論の場における、東京とロンドンの違いについて、2つだけ指摘できます。①東京では、ロンドンにくらべて発言する人が少ない。②ロンドンでは、議論の場で、argumentに終始し、結局、議論を発散させた人は、議論後、軽蔑されることです。多くの人が時間とお金をかけて用意した議論の場を、「校長先生の訓話」「青年の主張」の場に変えたのですから。
(最後に)
以上の私のストーリーは、「含意をもたらさない主張の言い合いだけの議論」という悲しい結末を生む、2つの要因をうまく説明するものとおもいます。
ただ、本サイトにおける活発な自説の提示は、本サイト参加者の方々の間で、意見表明を躊躇したり、「以心伝心」ですませようとされている方が少ないことを示唆しますから、私が指摘した「日本人の特性」の当てはまり度合は相対的に低いことでしょう。これは、良き「discussion」により近い位置にいることを意味します。
だからこそ、本サイトに集う左翼の論客の方々が、特定のイデオロギーを信じると同時に、社会科学および人文科学の領域において絶対的真理は存在しないことを謙虚に受け入れてさえ下されば、左翼という一大勢力の中における微妙なイデオロギーの違い(あるいは信じ方の違い)に起因して、含意のない、徒労感だけが漂う議論を回避することできると考えます。また、私のような非共産党関係者による投稿も増大することでしょう。この結果、本サイトの議論はより有意義なものになると思います。