1848年マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』において、世界はブルジョアジー
とプロレタリアの二大階級に分裂すると言いました。
それから150年以上経って、マルクスとエンゲルスの言ったようになっている地
域は、マルクスとエンゲルスのフィールドであったヨーロッパをふくめ地球上全地域
において、ただの一カ所もありません。
特にいわゆる先進資本主義国家の社会は、複雑な階級、複雑な集団の混合体をなし
たままです。
(ただし地球全体の搾取の苛烈さ、例えば貧困国で子供たちが大量に死んでいく政
策が国際独占資本の利潤のために推進されているといったことは、マルクスとエンゲ
ルスの想像をはるかに越えたものですが。)
そのような事実を無視したまま、旧態依然たるマルクス主義を保持したまま他人に
説教される方を見受けると、(酷な言い方かも知れませんが)私はその方の知力を疑
わざるをえません。
しかし独占資本の側は、社会が「資本家と労働者の二大階級に分裂していないこと」
を最大限に利用して労働者の運動をおさえこんできました。ノーム・チョムスキー氏
は次のようなことを書かれています。
「そして一九三七年に、最初の試みがなされた。ペンシルヴァニア州西部のジョンズ タウンで大規模な鉄鋼ストライキが起こったときのことである。企業が労働者を制圧 する新しい手法を試したところ、それがことのほかうまくいった。
用心棒の一団を雇って暴力に訴えたわけではない。そういう方法はもう通用しなかっ た。彼らが採用したのは、もっと巧妙な組織的宣伝だった。スト参加者への反感を世 間に広め、スト参加者は世間にとって有害な、公益に反する破壊分子だと思わせるの が狙いだった」(『メディア・コントロール』集英社新書p25~26)
私はチョムスキー氏の上の文章を見て嘆息するのは、これは1937年のアメリカ
だけのことでなく、日本をふくむ世界の資本主義国で、現在にいたるまで続いている
事態だからです。
それではこのような独占資本の戦略に対し労働運動の方は何をしてきたのでしょう
か。ほとんど何もしてこなかったと私は思います。そして何もしなかったことの最大
の原因は、マルクス主義における二大階級分裂論の幻想にあったと思うのです。
なぜなら労働運動の外にあって労働運動を批判的に見る人民(市民、農民エトセト
ラ)は二大階級分裂の中に消滅していくはずの層であり、したがって働きかけるに値
しない存在だったからです。
現実を見ようとせず、現実から学ぼうとせず、現実に対処しようとしない労働運動
を制圧することは、独占資本にとってなんと楽なことだったでしょうか。
しかしようやくここ4半世紀ほどの間に、それを反省し克服する動きが、労働運動
から出始めたようにも私には思われるのです。
昨年11月9日の日比谷野外音楽堂で、動労千葉他3組合の呼びかけに、韓国民主
労総およびアメリカのILWU(国際港湾倉庫労働組合)、UTU(全米運輸労働組
合)が参加した労働者国際連帯集会が開かれました(日本側は中核派が主体となった
集会ですが労働者の国際連帯を具体的に実現したことは高く評価されるべきものと思っ
ています)。
その大会の記録を読んで私が感動したことは(本サイトへの投稿のどこかでふれた
と思うのですが)、ILWUの代表者の方が、自分たちは1999年シアトルのWT
O抗議行動に連帯し、港湾を封鎖して闘ったと言われたくだりでした。
また昨年の2・15、今年の3・20国際反戦デモも労働運動と市民運動の共闘が
具体化されたものと思うのです。
先の投稿「労働運動と市民運動の共闘(3・20から見えてきたこと)」にも書い
たことですが、私はこのような労働運動と市民運動の共闘の中にこそ、これからの民
主主義の方向があると思うのです。
またこのような動きの中にこそ、チョムスキー氏が指摘された独占資本の戦略をた
たきつぶす唯一の活路があるとも思うのです。
しかるに現在でも日本の労働運動また党派活動をされる人びとの中に「150年の
幻想」からさめていない人びとが多いことに私は危機感を持たないわけにはいきませ
ん。(例えば国際反戦デモの労働運動一元論を言う人びとがいます。)
私はこのサイトには、投稿される「見える参加者」の他に、多くの労働運動や市民
運動にかかわっておられる方が探訪されていると思います(私の知っている人びとも
います)。
そういったいわば労働運動や市民運動のリーダーシップをとられる人びとに、労働
運動と市民運動の共闘の問題を、より深く、原理・原則の問題として考えてほしいと
祈りつつ、この拙文を書きました。