日の丸・君が代による教育現場への弾圧が吹き荒れている現在において、「君が代」の馬鹿馬鹿しさ、それが称える天皇制の馬鹿馬鹿しさ(「君が代」の「君」が「天皇」を意味することは、戦前の国定教科書が断言し、国旗国歌法が制定された1999年の国会で、故小渕首相が断言したことです)を再確認しておくことも無意味ではなかろうと思い、この小文でそのことに対する私見を書かせてもらいます。
「天皇」とは何か。それは「天皇」を最初に定式化した古典『古事記』(712年成立)と『日本書紀』(720年成立)に明確に記されています。地上に降臨した神の直系の子孫であることを支配の根拠とする倭王(日本の主権者)、それが天皇です。
日本の学者(歴史学者もふくめて)で意外とこの明確な事実を認識していない人が多いのは遺憾なことです。さすがに本職の(?)天皇の方はわかっているようで、東京裁判における戦犯訴追を逃れるための「人間宣言」を出す前の昭和天皇は、自分が「現人神」でないことを認めることには何の抵抗も示さなかったが、神の子孫でないことはがんとして認めなかったといいます(吉田裕『昭和天皇の終戦史』岩波新書)。
このようなイデオロギーにおいて問題になるのは、それが血脈によって人間を差別する思想の最劣悪なものであるということです。
天皇が天皇であるために彼(あるいは彼女)が有徳であるか否かは何ら本質的なことではなく、彼(あるいは彼女)の血筋のみが問題なのです。江戸時代の大国文学者・本居宣長は彼の著した『古事記伝』の中で、悪い天皇とか良い天皇であることを問題にしてはいけないと述べています。「血の尊貴」に対する奴隷的屈服だけがそこに要求されているのであり、天下は皇帝一人の天下ではなく徳を失った王朝は滅ばなければならないといった古代中国レベルの合理性さえそこにはないのです。
人類は古代から現代に至る長い期間において、このような血脈による差別を克服する努力をなしてきました。
例えば前5世紀ごろのインドで、釈迦は血脈差別の宗教であるバラモン教(ヒンズー教の前身)を否定し、人は生まれによって貴いのではない、人は生まれによって卑しいのでもない、人はその行為によって貴くも卑しくもなるという、不滅の名言を残しています(スッタニパータ)。
また1948年に国連で採択された世界人権宣言は、その第一条において「すべての人間は、生まれながら自由で、尊厳と権利において平等である」と叫んでいます。
天皇制とは人類の目指しまた獲得してきた「人間の平等」という理念にまっこうから矛盾する制度なのです。
またかって部落解放同盟を指導した松本治一郎は「天皇に対するいわれなき尊敬こそ部落民に対するいわれなき差別の原因である」と喝破しました。
(松本治一郎および戦前の水平社運動の戦争責任に対して朝鮮人民からの痛烈な批判があり[金静美氏の『水平運動史研究』1994現代企画室]、そこには解放運動当事者も日本人民も謙虚に耳を傾けるべきことがあると思います。しかしそのことは松本治一郎の上のテーゼの正しさを否定するものではありません。)
「天皇に対するいわれなき尊敬」は、人類全体の理想である「人間の平等」をまっこうから否定し、国内では部落差別をはじめとするさまざまな差別を生みだし、陰湿な特権と社会の悲惨を覆い隠すものなのです。
そして「君が代」とは「天皇に対するいわれなき尊敬の歌」以外の何者でもないのです。それを無理に歌わせられるということは、「人間の平等」という人類全体の理想と、それを歌わせられる人間個人の尊厳が辱められているということなのです。