反デューリング論を現代風にアレンジしました。
ご検討ください。
共産主義の意識、従ってまた、それを実際に適用するための思考と意識が、個々の共産主義者の系列を通じてでしか現れることができないということは、デューリング氏自身(スターリン主義批判者)もまぬがれがたいことだと述べていることである。
これらの共産主義者それぞれの思考に対して我々が至上性を認めることができるのは、この共産主義者が健康で覚醒状態にあるときには、どんな力もその共産主義者に何らかの思想を無理やりに押し付けることはできないというその限りにおいてである。(スターリンの時代では、スターリンの意識と思考が至上性を持っていた=スターリン以外では大祖国戦争もその後の計画経済も、北朝鮮への支援もなしえなかった)
しかし、スターリンの思考のおこなう認識の至上の妥当性ということになると、そんなことはまったく問題にならないこと、これまでのあらゆる経験に照らしてみて、スターリンの認識は、他の認識同様、例外なく改善の余地のないもの、すなわち正しいものよりも、改善の余地のあるものを、いつでもはるかにたくさん含んでいることは、我々がみな知っていることである。
言い換えれば、思考の至上性(過ちを起こさないということ)は、きわめて非至上的(常に過ちを犯し続けること)に思考する共産主義者たちの系列を通じて実現され、また真理たることの無条件の主張権をもつ認識(共産主義思想)は、相対的誤謬(今から見ての過去のもつ誤謬性)の系列を通じて実現されるのである。このどちらも、人類の生命の無限の持続を通じてでなければ、完全に実現されることはできない。
……この意味で共産主義者の思考は至上的であるとともに非至上的であり、その認識能力(従って実践能力も)は無制限(永遠に至上性を求め続ける)であると共に制限(しかし、それまでは常に失敗や誤りを繰り返す)されている。素質、使命、可能性、歴史的な終局目標から見れば、(共産主義)は至上的で無制限であり、個々の実施(スターリン時代の社会主義建設)とその時々の現実(資本主義の包囲、党内の修正主義や日和見主義)から見れば、非至上的で制限(粛清や党の日常活動・機関活動の限界)されている。
故に、失敗や不充分性があっても、共産主義の至上性は非至上性に行動する共産党の系列を通じて実現される。 ということだと思います。