「はたらきど」万歳!
2004/4/4 クオリア、60代以上、労働者
天邪鬼 殿
HP掲載「季節のない街」(雨に煙る正蓮寺川)ウォーター・カラー、いいね。思い出します。あれは奥小路鉄工の天井グレ-ンでしょう?その先の右下に、私が所帯をもったオンボロ・アパートがあったのです。(今はもうそのアパートもありません)正蓮寺川、懐かしいですね。毎年八月二十六日、正蓮寺川では、伝統行事「川施餓鬼会」(かわせがきえ)が営まれます。大勢の参拝者が日蓮上人の像を乗せた神輿と共に淀川へと繰りだし、故人の名を記した経木を船上から流して、冥福を祈ります。経木は環境に配慮して、水溶性です。
1721年以来脈々と続けられ、日本三大川施餓鬼の一つに数えられる歴史深い行事だそうです。
また、伝法5丁目の伝法水門付近で見る夕日は忘れられません。私はよく人に、「いっぺん見てきてみ」と絶賛したものです。本当に、懐かしい限りです。
「いつになったら労働者の天下になるのだい」ってかい。
その昔、地球上で初めて、ロシア革命が起きたとき、日本の労働者が、我が子を抱き上げ、「ぼうず、お前たちの天下になるぞ」と云ったエピソードがあるが、幾星霜、その希望は虚しく、夢の夢。ただ、今はカラカスの兄弟たちに思いを繋ぎたい。労働者の天下になれば、何も失う物はない。失う物は暴虐の鎖だけである。私はそれを信じたい。
「はたらきど」やむを得ぬ事情(生活苦・戦時疎開)で関西に移住し、戦前から沖縄県人に対する偏見と圧迫に耐えて生きてきたはたらきどし(働き人)を大阪では「はたらきど」と云う。つまり、どんな辛い苦労にも耐え、がむしゃらに生きる。がしんたれの事を云うのである。
総合重機の石川播磨重工業では、日本共産党員らを一掃するために、「ZC(ゼロ・コミュ二スト=共産党員撲滅)計画管理名簿」作成のもと、徹底した差別を続けてきたが、東京地裁の和解は、石播が八人の原告に謝罪し、「会社及び従業員がやっってはならない差別事例」を明記した再発防止事項を確約させました。また、鉄工大手の新日鉄・広畑製鉄所では、日本共産党員や支持者に対して、上司が変節を強要したり、会社が反共インフォーマル(秘密労務)組織を使って、監視と嫌がらせ、職場八分を行ってきたが、神戸・地裁は、「かかる取り扱いはいづれも、原告が日本共産党員であることを理由とする差別的取り扱いである」と断罪し、原告五人の勝利が決まり、原職の復帰を勝ち取りました。
思えば、1968年10月、私も大阪・同盟の一企業内労組の階級的・民主的な発展・強化をめざして闘い、不当な解雇を受けました。この組合(同盟傘下30支部・1600名)は、組合員の生活と権利を守る上での、切実な要求や不満に悉く背を向け、労使協調を旗じるしに、苦しい生活やひどい労働条件、無権利の状態にある組合員の利益を会社に売り渡す、階級的な犯罪を繰り返し、組合の私物化を公然と行ってきました。
組合の規約も支部には皆無で、全ては本部規約一本で拘束され、また規約の内容にいたっては、除名を含む組合員の身分、その他組合活動のあらゆる事が、本部委員会の意のままに、決議・執行出来ると云う代物でした。私は、映画「どれい工場」にも、勝るとも劣らぬ職場で、10年かけて「学習会」と云う非公然組織を作り、徐々に組合の民主化を進めてきました。
メンバーの中からは、労働学校に通う人も多数いましたが、やがて会社の知るところとなり、6名が知りぬけユニオンにより解雇されました。寮生活をしていた3名は、職制と組合ゴロの暴力により、寮から退去させられました。それでも3名は屈服しませんでした。私たちは即座に争議団を結成し、この不当な解雇の撤回を求め、訴えのビラを作成して、多くの労働者・市民に訴えました。職場の近くに事務所も設け、大阪・地裁に「地位保全の仮処分」申請を行い、職安にも行き、失業保険の仮給付を求めましたが、「会社の退職証明をもって来い」の一点張り、そこで一週間、「お前等、会社の不当解雇を容認するのか、解雇が正当か、否かは裁判所が決めるのだ。これが、提訴の証明書だ」と云って、職場復帰が出来たら、返してやるとして、全員の仮給付を認めさせました。
また、区役所に赴き、生活保護と公営住宅の確保も認めさせ、全員の家族が闘いの拠点に結集して、毎日、三人交代になって、逆オルグとアルバイトに参加しました。六人はドライバーと整備士でしたから、結構いいアルバイトがありました。
生活費は、全てプール制にして闘いました。
朝な夕な、環状線・駅頭でビラまきカンパ、一寸した有名人となり、事務所での生活よろず相談や未組織労働者の組織相談。忙しい毎日でした。地域要求も忘れず、「ここに信号をつけろ」「ここに横断歩道を作れ」「ここにバリアフリーを」などと立て看板を何十箇所設置したり、社長宅の周りに、一夜に数百枚のステッカーを貼りまくったりしたものが、功を奏したのか?かなり、業界や行政からも圧力がかかり、「あの争議団を何とかしろ、周りが迷惑だ」と云われだし、1970年7月、629日目に、さしもの会社も根をあげ、裁判所に、和解を申し入れ、全員解雇撤回・原職復帰、バック・ペイ、解決金を勝ち取りました。和解書を取り交わす時、私は社長に云いました。「解決して欲しかったら、お前、皆の前に土下座して謝れ」と一喝すると。彼は身体を震わして土下座し、小さい声で、「済まなかった」と云いました。思えばあっと云う間の思い出となりました。勝利集会で、「勝つ見通しはありましたか」と聴れ、私は「勝った時が見通しです」と答えた事を覚えています。尚、この裁判の主任弁護士は、身体の不調?を理由に25年間の国会議員を辞職した。M衆院議員であることを付記しておます。「労働者」は素晴らしい!「はたらきど」万歳!
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