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一般投稿欄

勘太郎さまへ-共産党宣言を擁護する

2004/4/5 北野勇、40代、労働者

(勘太郎さん)1848年マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』において、世界はブルジョアジーとプロレタリアの二大階級に分裂すると言いました。
 それから150年以上経って、マルクスとエンゲルスの言ったようになっている地域は、マルクスとエンゲルスのフィールドであったヨーロッパをふくめ地球上全地域において、ただの一カ所もありません。
 特にいわゆる先進資本主義国家の社会は、複雑な階級、複雑な集団の混合体をなしたままです。
 (ただし地球全体の搾取の苛烈さ、例えば貧困国で子供たちが大量に死んでいく政策が国際独占資本の利潤のために推進されているといったことは、マルクスとエンゲルスの想像をはるかに越えたものですが。)
 そのような事実を無視したまま、旧態依然たるマルクス主義を保持したまま他人に説教される方を見受けると、(酷な言い方かも知れませんが)私はその方の知力を疑わざるをえません。
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(北野)失礼ながら、「共産党宣言」の読込みが浅いと思います。
マルクスは「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と述べ、古代ローマの奴隷制社会では、貴族と奴隷の間に、騎兵や平民をあげ、中世の封建社会では、封建君主と農奴の間に家臣やギルド組合員、職人をあげ、さらにこれらの階級の一つ一つの中が、また別の階層に分かれていた、と述べています。
 つまりマルクスは資本主義以前の階級関係の方が複雑であったと言っています。反対に、ブルジョワ階級の時代は階級対立を単純化したと述べています。ブルジョワジーは「人間を血のつながった、その長上者に結び付けていた、色とりどりの封建的絆を容赦なく切断し、人間と人間の間に剥き出しの利害以外の、冷たい現金勘定以外のどんな絆も残さなかった。…..彼らは人間の値打を交換価値に変えてしまい、お墨付きで許されて立派に自分のものとなっている無数の自由を、ただひとつの良心を持たない商業の自由と取り換えてしまった。一言で言えば、彼らは宗教的な、また政治的な幻影で包んだ搾取を、あからさまな、恥知らずな直接的な干乾びた搾取と取り換えたのであった。」
 あなたは、資本家階級の存在は否定していないのであれば、彼らの存在を保障する搾取も否定できはしない。では、いったい誰から搾取するのだろうか? 複雑な階級の誰から? 複雑な集団の誰から? あなたは生産手段と生産関係をすっかり忘れてしまい、途方に暮れてしまったにすぎません。
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 (勘太郎さん)しかし独占資本の側は、社会が「資本家と労働者の二大階級に分裂していないこと」を最大限に利用して労働者の運動をおさえこんできました。ノーム・チョムスキー氏は次のようなことを書かれています。
「そして一九三七年に、最初の試みがなされた。ペンシルヴァニア州西部のジョンズタウンで大規模な鉄鋼ストライキが起こったときのことである。企業が労働者を制圧する新しい手法を試したところ、それがことのほかうまくいった。
 用心棒の一団を雇って暴力に訴えたわけではない。そういう方法はもう通用しなかった。彼らが採用したのは、もっと巧妙な組織的宣伝だった。スト参加者への反感を世間に広め、スト参加者は世間にとって有害な、公益に反する破壊分子だと思わせるのが狙いだった」(『メディア・コントロール』集英社新書p25~26)
 私はチョムスキー氏の上の文章を見て嘆息するのは、これは1937年のアメリカだけのことでなく、日本をふくむ世界の資本主義国で、現在にいたるまで続いている事態だからです。
 それではこのような独占資本の戦略に対し労働運動の方は何をしてきたのでしょうか。ほとんど何もしてこなかったと私は思います。そして何もしなかったことの最大の原因は、マルクス主義における二大階級分裂論の幻想にあったと思うのです。
 なぜなら労働運動の外にあって労働運動を批判的に見る人民(市民、農民エトセトラ)は二大階級分裂の中に消滅していくはずの層であり、したがって働きかけるに値しない存在だったからです。
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(北野)まるで、世界同時革命の無謀な空想でしかありません。ロシア革命では労農兵ソビエトがありました。現代であれば、労働者・農漁民・中小商工業者・青年学生・婦人・文化知識人が統一して闘う必要を教えています。このどの階層も独占資本によって苦しめられ生活と権利、自由と民主主義を奪われています。なぜ、共同して闘う事ができないのでしょうか?
 労働運動を批判的に見る人民が生まれたのは、労働運動を政治闘争としてではなく経済闘争として闘った結果であり、目先の利益ばかりを求めた運動を展開したからに他なりません。
 生活と権利、自由と民主主義、人間性の尊厳を高く掲げて闘うなら、多少の時間、孤立、局部的敗北、があったとしても必ず統一できます。それをやろうともせず、現実に悪態をつくのはいかがなものでしょうか?
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 (勘太郎さん)現実を見ようとせず、現実から学ぼうとせず、現実に対処しようとしない労働運動を制圧することは、独占資本にとってなんと楽なことだったでしょうか。
 しかしようやくここ4半世紀ほどの間に、それを反省し克服する動きが、労働運動から出始めたようにも私には思われるのです。
 昨年11月9日の日比谷野外音楽堂で、動労千葉他3組合の呼びかけに、韓国民主労総およびアメリカのILWU(国際港湾倉庫労働組合)、UTU(全米運輸労働組合)が参加した労働者国際連帯集会が開かれました(日本側は中核派が主体となった集会ですが労働者の国際連帯を具体的に実現したことは高く評価されるべきものと思っています)。
 その大会の記録を読んで私が感動したことは(本サイトへの投稿のどこかでふれたと思うのですが)、ILWUの代表者の方が、自分たちは1999年シアトルのWTO抗議行動に連帯し、港湾を封鎖して闘ったと言われたくだりでした。
 また昨年の2・15、今年の3・20国際反戦デモも労働運動と市民運動の共闘が具体化されたものと思うのです。
 先の投稿「労働運動と市民運動の共闘(3・20から見えてきたこと)」にも書いたことですが、私はこのような労働運動と市民運動の共闘の中にこそ、これからの民主主義の方向があると思うのです。
 またこのような動きの中にこそ、チョムスキー氏が指摘された独占資本の戦略をたたきつぶす唯一の活路があるとも思うのです。
 しかるに現在でも日本の労働運動また党派活動をされる人びとの中に「150年の幻想」からさめていない人びとが多いことに私は危機感を持たないわけにはいきません。(例えば国際反戦デモの労働運動一元論を言う人びとがいます。)
 私はこのサイトには、投稿される「見える参加者」の他に、多くの労働運動や市民運動にかかわっておられる方が探訪されていると思います(私の知っている人びともいます)。
 そういったいわば労働運動や市民運動のリーダーシップをとられる人びとに、労働運動と市民運動の共闘の問題を、より深く、原理・原則の問題として考えてほしいと祈りつつ、この拙文を書きました。
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(北野)社会主義と共産主義の原理原則をはなれて、この国際労働運動と国際市民運動(?)は何を目指すのでしょうか? 独占資本からの譲歩でしょうか? 動労千葉は日本の労働運動を代表し牽引するためにいったい何をやっているのでしょうか? 独占資本の戦略とは何でしょうか?シアトルのWTO抗議行動に感動するのはいいのですが、後進国の労働者や農民は誰に抗議すればいいのでしょうか? あるいは有明の漁民たちの分裂を統一させるどんな市民運動の方針があるのでしょうか? 私の知力では到底はかりしることができません。