何人かの方が、議論の仕方について述べられていたので、それとも関わるので、民主主義のイロハ的なことになってしまい恐縮ですが少し書かせていただきます。
「正しい意見」を述べているつもりでいながら常に罵詈雑言に漸近していく人は、その論拠を問い返し詰めても、結局、応答できません。最終的に、彼/彼女らの「正しい意見」の「正しさ」を担保しているのは、「私がそう思うからだ」ということに尽きるからです。極端な形ではありますが、たとえば人を<人間でない><ケダモノ以下>と認定できるのも、そのような極私的な視角からモノを見ることができなくなってしまっているからでしょう。
ただ、そのようなあり方が尤もグロテスクに現れるのは、全体主義においてです。ある「正しさ」から少しでもはずれていると認定された意見・思想はすべて「敵」と見なされ、気に入らない人物は追放ないし殺すべき者となります。スターリンにとって、過去の同志はほぼすべて「革命の敵」となりました。トロツキーもブハーリンもジノヴィエフも、彼らがボリシェヴィキ革命を擁護・推進しているのに「帝国主義の手先」と断定されました。日本共産党において、宮本顕治路線に反対する人々は「意見の相違ではなく規律違反を犯した反党分子」として追放されてきたと言って良いでしょう。
9.11の後、アメリカでも再びこの全体主義は頭をもたげました。「対テロ戦争」に反対する人々が職を追われたり、自分の意見を述べにくい状況ができました。しかし、完全な全体主義国家とはなっていないアメリカでは、そうした動きに反対し、「対テロ戦争」に反対する多様な民衆の運動・努力が存続しています。
ところで、「誰もが自分の意見を正しいと思っているのだから、所詮<意見>に過ぎない点では同じ」という相対主義がこの日本社会では根強くあります。「<意見>は多様な考え方の反映であり、政治的な意見は、結局どちらが正しいとはいえない」という相対主義は、民主主義に不可欠な対話や理性的な討論を否定しています。
私たちの個々の多元的な「正しいと思う意見」が対話・議論・相互批判を経て、民主主義社会を動かす動力となっていくという実践的な観点を相対主義は欠落させているからです。
相対主義は、「絶対的な正しさなんてない」という直感を、意見そのものや意見を述べ議論することの重要性を否定する方向に作用させてしまうのです。
その点で、相対主義を徹底させることと全体主義とは、実は表裏一体の関係にあるわけで、実際に両者は補完し合っています。
また、ある意見が対立する意見との議論を通して、論点を深め豊かになっていくのですから、反対論の存在はどの意見にとっても望ましいものです。「私はあなたの意見に反対だ。しかしあなたがそれを言う権利は死を賭して守る」というヴォルテールが言ったという言葉は、やはり民主主義の精神を示していると思います。
もちろん、以上のような民主主義の前提となる多元主義・複数主義は、人権侵害行為や犯罪を直接主張する「意見」表明の自由を含んでいるわけではありません。が同時に、政治過程の各レベルにおいて何が人権侵害になるのかについては、多様な意見が存在し得るのですから、具体的な社会状況のもとでの議論を通して、ある政治的な意見が人権侵害や侵略のような<悪>につながることをさまざまなレベルで論証していく営み自体が求められているわけです。
また、当然のことですが、人が政治的な意見を述べるときに、その背後にはその人の生活上の経験や思想的なバイアスや、現実に対する感情があります。どのような客観的な分析や冷静な発言であっても、政治的な意見表明の背後には、ある人の思いがあるのは当たり前のことです。しかし、もし権力=暴力や恫喝・罵詈雑言によって相手を屈服させる、惨めで最終的には無力な行為に陥ることを避けたいならば、自己の感情を先行させたり、私的な思いのみを語ることは全く無益なことです。ましてや、自己の怒りを突出させて、ステレオタイプのスローガンを唱えても、私的なカタルシスを得ることはできても他者を説得できません。
しかし、現在の日本では、メディアをはじめ、社会の至る所で、議論ではなく相手を罵倒し、切って捨てる言説が蔓延してます。最近ではイラクでの拉致事件や年金問題で毎日のように高圧的な「意見」表明が繰り返されています。議論を破壊するきわめて危険な風潮だと思います。
自己満足としての「正義感」の裏側に張り付いたエゴイズムが、いかに惨めな結果しか生まないかは、20世紀全体主義の挫折によって明白になっています。本当に深部から社会を動かしていくのは、生活者としての民衆の深い納得や意思とそれに基づく実践においてしかありません。