昔、全共闘なんかが、暴れていた頃の反戦運動は群雄割拠だった。
今日の時代に、同じ事を求めても、それは不可能だ。
ただ、どんなに時代が変わろうと、形が変わろうと、大衆のエネルギーは、群雄割拠の形でしか爆発しない。
この運動に、一元的なものを求めれば、運動は宗教的なものになる。
自らの内部に権威の体制を作ってしまえば、それはもはや、大衆のものではない。
運動には、方向性が必要だ。
そのために、自然と権威が発生する。
しかし、その権威は体制化すると共に破綻する。
株式市場は興味い。
常に、群雄割拠で、権威は生まれると共に破綻する。
「生き馬の目を抜く市場」と「共に助け合う運動」を比較するのは筋違えのように見える。
しかし、株式市場では、環境問題や社会問題で評価されない会社は見捨てられる。
反戦運動内部でも、過去の歴史を見る限り、「生き馬の目を抜く」権力闘争を繰り返していた。
権力闘争が悪いのじゃない。
むしろ、この権力闘争を否定したり隠したりする体制こそが問題になっている。
「生き馬の目を抜く」戦いが無い市場や運動は、自ずと腐敗する。
どんな運動も、どんな市場も、「共に助け合う運動」と「生き馬の目を抜く権力闘争」が共存しなくては発展しつづけることは出来ない。
株式市場は、徹底した自己責任の世界である。
それでいて、夢の無い会社は見捨てられる。
人間は、誰でも、夢を持って生きて生きたいと思う。
だから、夢のある会社は、市場で高く評価される。
共産党にも、生き生きとした夢のある時代があったと思う。
しかし、今日の共産党は、「兵どもの夢の後」しかない。
一人一人が夢とロマンを持って語る事が出来た共産党を、もう一度、今日の党員は振り返るべきじゃないだろうか?
そのためには、党員一人一人が党の主人であり、党の問題を党員一人一人の自己責任の問題として考える必要があるだろう。
平和と言うものは大切にしなければいけないが、日本人は、これを大切にしすぎて、自己主張の権利まで放棄しているようなところがある。
己の権利を主張すると「我が儘」「独り善がり」と言うような批判が帰ってくる。
共産党の世界でも、内部ではこうした風潮が見られる。
昔、上田耕一郎が、共産党を除名になった元幹部のことで、
「彼は、よく、俺が俺が、と言う意識を持ちすぎた」と批判した。
私は、こういう発想こそ、共産党をだめにしていると思う。
党員一人一人が党の主人であらねばならない。
「俺が共産党を変えてやる」「俺がこの日本を変えてやる」と言う元気を、失わせ、失った党員が評価される組織構造になっている。
様々な社会・思想集団において紛争が発生すると、大抵の場合、主流派・正統の側に責任がある。
主流派・正統の側の奢りや生命力の枯渇などが原因で、異端が生まれる。
ただ、場合によっては、この異端との戦いで生命力を回復する場合もある。
こうした場合は、己の生命力を回復するために異端を無意識に産み出した、と言う解釈も出来るようになる。
異端は、己をもっと高い地平に引き上げるために、無意識に産出したものでもある。
従って、異端を排除するのではなく、異端を己の中に取り込むことが大事なのじゃないだろうか?
いろんな世界の歴史事件を見ると、この異端を排除した、社会集団・思想・宗教は、大抵、破綻した。
成長する集団・思想と言うものは、この異端を取り込む事で、発展してきたように見える。
自由・民主主義・資本主義の原理が、今日まで、数多くの失敗と犯罪を繰り返しながらも、成長しつづける事が出来たのは、この事によるように思える。
平等・社会主義の原理が、世界史の中で、度々、輝かしい光を放ちながら、中々、継続的に成長・発展できないのは、この異端の排除のためだと思う。