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自称ゆでがえるの思うこと

2004/05/08 自称ゆでがえる 30代 会社員

 先日投稿させていただいた、自称ゆでがえるです。
 ちなみに、このハンドルネームは私自身が任意で付けたものでして、誰に言われたものではない事をはじめに言っておきます。

 私は大した学もなく、マルクス主義はもちろんの事、その他の特定の主義や宗教などに到っても、どれか一つを選び学習し、それを実践しているわけでもない、その名の通りの『ゆでがえる』です。
 これは外国(一応、精神的先進国という事になるのでしょうか?)に住んでいらっしゃる方や、そういった意味での外国の民度の高さを知っていらっしゃる方にしてみれば私のような存在と発言内容は驚かれる事なのかもしれません。

 しかし、ゆでがえるにも五部の魂です。
 私ごときのような者にも、一応ですが考えはありますし、ちなみに選挙権もあります。
 今回は政治とは多少かけ離れますが、それを少し書かせていただきたいと思います。

 N.K様の書かれた「政治や社会の認識には複数の立場・解釈がある、という多元主義的・複数主義的認識論が欠落しているからだと思います」 というくだりに、多大なる共感をおぼえました。

 私のような素人が政治を見たときに感じる事なのですが、これは適切な言葉でまとめられないので、ひとつの例えにして表現してみたいと思います。

 例えば『A論』と『B論』という二つの方法論があったとしましょう。
 当然ですが、A論に賛成の側はA論を主張し、またB論に賛成の側はB論を主張し、押すでしょう。
 そして、その論戦における物事の解釈、言い分は、A論の支持者側においては、Aの論におけるメリット・Bの論におけるデメリット、Bの支持者の側はBの論におけるメリット・Aの論のおけるデメリットという風に、A側もB側も、主に自分側のメリットの部分と相手側のデメリットの部分でかけ比べているように思うのです。

 元々、全ての主義や思想、広く言えば考え方には多少なりとも相違があるものなのですから、相対するのは当然といえば当然なのですが、これではどちらの側も『正しい見解』とは言えないのだと思います。
 少なくとも、AとB、どちらが正しいかを論ずるときに必要な姿勢ではないと思います。

 私は思うのですが、元来、物事というのは多元的な要素で構成されていると思うのです。
 物事(事象)には、様々な種類があります。
 そして、その中における一つの物事の中においても、様々な要素が入り混じって、その形をなしていると思うのです。
 先に挙げた例で言った場合、AにはAにおけるメリット・デメリット、BにはBにおけるメリット・デメリットの部分、この四つが議論の場に同時的、そして平等的に存在すると思うのです。
 もちろんAの側も自分側にもデメリットがあるという事を前提としなければいけませんし、Bの側もそれは同等だと思います。

 主義・主張もそうですが、その前に正しい分析とは、相手を論破するために必要な要素だけを導き出すのではなく、まず『それが何か?』という事を平等的な観点から導き出す事を言うのだと思います。
 少なくとも、主義的な見方だけによる一方的な解釈ではないと思うのです。

 より客観的に分析するという手段は、日和見でも八方美人でもなく、冷静な大人の判断だと私は思います。
 全ての存在一つ一つに、光と影といった両面的な要素が存在すると思うからです。
 そのどちらか一方だけを擁護し全面肯定するという二元論的な発想は、とても危険であると思います。

 AはA、BはBだけといった一方的な物事の見方しか出来ない判断は、ある意味でいえば『執着』と言えるでしょう。
 これは、一方的な主義的解釈に固執するのと同時に、政治的な戦略上などの理由から、自ずと自分側の立場にとって有益な図式となる見方に傾いているか、物事に対する探求姿勢が十分ではないと言え、少なくとも、平等的な見解とは言えないと思います。
 世の中には何一つとして、同一のものは存在しません。
 意見の出所にしても、趣向や性格的なもの、イデオロギーなどが複雑に絡み合うでしょうから、違いが出てきて当然なのです。
 ですから、この場合においての大事な事とは、すなわちN.K様が言われたことに直結すると思うのです。

 「複数の立場・解釈がある」というのは裏を返せば、自分(側)の意見も様々な意見の中の一つであり、自分の側の見解も単にその中に含まれる一つの異なる見解である、という事を意味しているのだと、私は思います。
 そして、その価値観を持つという事は、公正な場における最低限のマナーのようなものだとも私は思います。
 要は『他者』という存在の認識の仕方だと思います。

 主義の上で反目するような事を言う人がいたとしたら、なおさらその存在を『他』であると感じる事と思います。
 私は不勉強でして、詳しい理屈抜きに書くのは多少気が引けるのですが、『他』=『邪』『敵』という誤った認識が、争いという事象の発端そのものだと思うのです。
 断っておきますが、いくら『他』を自分と同価値のものとして認める事が重要だとは言え、それを迎合しろとか、思想的に融合して考えろなどと言っているわけではありません。

 要は『融和』と『融合』という言葉の違いなのだと思います。
 異なる主義・思想同士に、足して二で割るような融合はなくとも、融和的発想なら抱けると思うのです。
 それは、自分側に主義・主張があれば、他の側にも、それと同等なだけのそれに対する信頼感や、正当性が存在するという事です。

 ちなみに私が共産党の友人にこの手の話をした事があって、一笑にふされた事を覚えています。
 多少、稚拙な例えになりますが、

「あなたが学生の一人であるとして、美術の授業を受けるとする。
 授業の内容は、デッサン。
 まずはモデルとなる人物に中央に立ってもらい、どこの位置からでもいいから、スケッチしてもらう。
 ある人間は(あくまで一般的に見た場合)一番形を捉えやすい正面から、ある人間は横顔が素敵だと感じ側面から、ある人間は背中に魅力を感じ後背から、ある人間は一点のみを集中的に捉え、そして一部の人間は机を高く積み俯瞰的な角度から、ある人間は逆立ちしながらと、様々なスタイルで『自由に』絵を書いてもらうとします。
 そして書き終わったら教諭がその絵を集めます」

 当然、自由な視点で描かれていますので、書かれている絵の形はてんでバラバラです。
 が、絵の形に統一性はなく、相違があれども、同じ被写体をスケッチした事に代わりはないでしょう。
 そして、その絵の中でどれが正しいであるとかどれが虚偽であるとかは言えないとも思いますし、その中でどれが正しい位置から書かれた絵なのかという事を論ずる事は、いくら高等な理屈を持って論じたとしても、それは単に滑稽となるでしょう。
 人間を見てリンゴが書いてあれば、確かにそれは間違いだとは思います。(あらゆる意味での芸術的センスは別として)
 ただし、この場合、その絵の全てが正しい絵ということになります。
 それぞれの質は異なっているにも関わらず、です。

 芸術と政治を一緒にするわけではないですが、N.Kさんの言われた「多元主義的・複数主義的認識論」というのは、この図式に当てはまるものであると私は思います。
 『論点』という言葉が存在する以上、それは多角的に物事を論じられるという証明であるともあるとも思います。

 もう一つ独自な例えを書かせてもらうと、

「『もしも人体部分で、一番重要な機能を持つ部分はどこか?』
というテーマの議論があったとする。
ある人は脳が一番重要だといい、ある人は心臓だという。
ある人は生殖器だと答え、ある人間はその他の器官をあげたとする。
各自がそれぞれ、その器官のメリットを論じ、自分の論の正当性を訴える。」

 どうでしょう?
 それに順位などつけられるのでしょうか?
 その議論自体が滑稽ではないのでしょうか?

 前にも書きましたが、要は、自分(側)以外における『他者』というものを、どう捉えるかだと思うのです。
 こういう風に言うと長壁様に怒られてしまうかもしれませんが、『平和論』とて、そのいくつもの正論の中に存在する一意見だと思うのです。
 ある新聞の記事で、たしかうろ覚えなので正確ではないのですが「歴史的に見て戦勝国(統治国)は、敗戦国(被統治国)にとっての新たな文化・歴史のスポンサー的存在でもある」といった文章を読んだ事があります。
 これは一見、戦争肯定論、犠牲者を蔑ろにしているような、極端に右に偏っている文に見受けられますが、はたしてそうでしょうか?
 肯定も否定もなしに、主義も思想も通さずに、この文そのものを考えたときに、「確かに思い当たる節もあるな」くらいの認識があることに気が付きます。
 これは決して戦争の歴史を迎合するものではないと誓いますが、歴史的に見て判断した場合、事実である一面もあるのです。
 結果論に過ぎないかもしれませんが、『支配者』と見るか『統治者』と見るか?
 これは考えようによっては、どちらとも受け取れるのです。
 そして、この二つの見解は全く平等な高さにあるもの同士だと思います。

 まずは、その場に出ている論自体を平等的な価値観で考察・認識し、自分の中で秀でている方を選ぶ。
 もしくは、ここの部分は評価でき、ここの部分は納得できない。
 反対側の意見も考えようによっては、筋が通る部分もある。
 それを踏まえた選択こそが(私の思う)正しい選択の仕方だと思います。
 一つの分野だけを選択し、その高みだけを目指して学習する事も大事だとは思いますが、その結果、他のものと同等であるという価値観を失い、自らの理論が唯一無二の正義であるなどという勘違いをしてしまう人が多いように見うけられ、そんな人(団体)同士が泥仕合を繰り広げていると感じるのは私だけではないはずです。
 私はあくまで一般人で、自称他称とも『ゆでがえる』ですが、どれの高みもない分、客観的・第三者的に物事を見られる特質を持っていると自負します。
 政治論なども語れない私の言いたい事とは、あくまで論ずる姿勢やあり方の問題です。
 一つの物事を受け取るときに、私は主義的にこうだからではなく、例え自分の側でも他の側であったとしても、良い部分は良い、悪い部分は悪いと分けて考えられることこそが『理性的』であって主義者である以前に、大人の判断だと私は思います。

 最後に、そういう観点で作った冗談を一つ書いて結びにしたいと思いますね。

動物同盟より(以下、動物共通語役)

「その昔、世界は私たち動物たちが住む楽園だった。
それをニンゲンというケダモノにも劣るケダモノが、その賢しい知恵を持って自然環境を破壊し、世界を席巻してしまった。
それを彼らは、人類的発展などと称している!
私たち動物は、住み家を追いやられたり食料にされたり、時には趣向目的に動物権を著しく損害すると称して観賞用としての扱いにする屈辱的である動物園の存在!、果ては狩りの標的にされたりと散々な虐待を受けている。
『ニンゲン帝国』による侵略・破壊行為は許せない!
たかだか運良く成り上がっただけの、このニンゲンという一種族は、狂気の殺戮者にしか過ぎない!
さぁ!今こそ立ちあがろうではないか!
川や海、山林などといった『聖地』をこの手に取り戻そうではないか!?
ニンゲン帝国に告ぐ!
今すぐ破壊と略奪をやめなさい!
私たちは、ニンゲンという生き物に断固反対します!
さぁ、皆さん!
ニンゲンに反対しましょう!
(パチパチパチ!鳴り止まない拍手)」