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一般投稿欄

日陰のもやし氏の「文章はよく読みましょう。再び丸 楠夫氏へ」を読んで

2004/05/08 丸 楠夫 医療関係

 自民とうなり公明党・創価学会なりを批判することも、大いに結構なことでしょう。ただ、その批判が例えどんなに辛らつで機知に富んだものであったとしても、自民党なり公明党なりの存在が、現代日本で占めている位置・役割や、自民党・公明党政権の成立・維持を可能としている背景、要因、条件、構造といった「本質」に踏み込まないものであるならば、そこから、現状に抗して社会変革を図る具体的・現実的戦略を導き出すことは不可能でしょう。
 これは、共産圏を批判する際にも通じるものだと思います。
 氏の言われるように、共産圏で繰り広げられた「武力を背景にした「政権強奪」」等の具体的な行為自体を糾弾することも、もちろん重要でしょう。
 例えばの話、犯罪者の違法行為に対して刑罰を科すことは、当然必要でしょう。しかし同時に、犯罪者がその違法行為を犯すに至った背景や要因を究明することもまた、犯罪の根本的解決・防止を図る上で不可欠なものでしょう。犯行の背景や要因を一顧だにすることなく、違法行為の断罪のみで事足れりとする態度は、結局、個々の犯罪から有意義な教訓を引き出していく道をも、自ら閉ざすことにもなりかねないでしょう。
 さらに、共産圏と現代の日本はまるっきり別物であり(もちろん、その考え自体は個々の具体的事実を踏まえてはいるでしょう)、この二つを関連付けて考えること自体許しがたい過ちである、として、さながら対岸の火事を眺めるような態度であれこれ批評するだけならば、そこから得られた「本質」など、現代の日本に生きる我々にとっては何の役にも立たない“暇つぶしの産物”に過ぎないでしょう。

 日本共産党が取るべき「現状の日本政治の中で政権に参加できるほどの大胆な自己改革」として氏が想定されるのは、一体どんなことなのでしょうか?
 もし仮にそれが、日本全体の右傾化に迎合していくこと、積み上げられた既成事実を、それが“既成事実だから”といって追認していくこと、現実主義の名の下にただ現状を容認していくこと、すでに形成されている多数派に擦り寄ることで自らも多数派になろうとすること、であるならば(もし違うというのであれば、それを具体的に示してほしい)、例えそれによって共産党が自民党に取って代われたとしても、結局は、現在の日本の政治的、経済的、社会的枠組みと方向性「「…の固定化」に「貢献」」することにしかならないでしょう。
 以上のようなことが、氏のいわれる「日本社会の民主的発展のために各分野で必要な人材として活用され」「本当にこの国で困っている人々を始め真面目に働く人々のために現実的な何らかの政治的努力をしようと」することに反するのは明らかです。

 氏が、「日本共産党も共産主義の思想もまったく必要のないものとして切捨て」る際の条件として挙げられた、私が「もし「日本共産党員」で」あるならとか「自ら共産主義者を任じて」いるならとか、どんな「認識で行動」しているか、といったことがそのまま、「真性共産主義者」のレッテル張りの条件でもあったことは、氏の前回の投稿を読み返して納得しました(はっきりそう書いてあった訳ではありませんが)。
 しかし依然として、なぜそのような条件を満たすと「真性共産主義者」とレッテル張りされるのか、そもそも「真性共産主義者」とはいかなる意味なのか、あの議論において「真性共産主義者」というレッテル張りを行はねばならない必要が果たしてあったのか、等の点はなんら解明されません。
 今回、「真性共産主義者」というレッテル張りについての氏の回答を読んでわかったのは、議論や批判をする上で、相手を“〇〇主義者”呼ばわりして(氏の表現では「「…主義者」の称号を差し上げ」て)非難するスタイルは、氏が「共産党に対して感じる…苛立ち」の対象外なのだろうなあ、ということでした。私自身は相手を“〇〇主義者”呼ばわりする気はどうにも起きないのですが(この点は氏と私との「違い」のひとつではないでしょうか)、もしこれを読んでいる方で今後氏と議論を交わす機会のある方は、その際氏に“〇〇主義者”「の称号を差し上げ」るのも一興かと思います。
 さて、レッテル張りについては今回氏から一応の説明があったのですが、私は他にも前回の投稿で具体的に氏の発言を引用し、それらに私が感じた疑問について氏に回答を求めました。また、氏の前回の投稿で、「あなたの問題意識がよくわからないしそのまま理解することはできない」と言われた点について、それがどんな点なのかできれば逐一挙げてほしい、とお願いしておきました。
 ところが、今回の氏の投稿のどこをどう「よく読」んで見ても、これらについての回答も指摘も見当たりません。
 まあ考えてみれば、わざわざお忙しい合間を縫って氏が「最も軽蔑」(日陰のもやし「真性共産主義者、丸 楠夫氏へ」参照)する相手に宛てて「何か新たな希望を抱けるような展開」もない投稿をするとなれば、「あなたが論じた多数の点すべてに答えるほどの気力はもはや私にはありません。」と弱音の一つも出るのも当然かもしれません。
 思えば氏の投稿を読むたびに、氏の、他者に対する糾弾や批判、非難と氏自身の言動との著しい(と少なくとも私には思える)矛盾、乖離(特に、共産圏における反対者への粛清、言論弾圧、思想統制等の不当性にあれだけ厳しくこだわられるその氏が、たかだか私のようなものが仮に「日本共産党員」であったり、「共産主義者を任じて」いたり、どんな「認識で行動」しているかといった「条件」だけで、いきなり「日本共産党も共産主義の思想もまったく必要のないものとして切り捨てます。」と言い切っていまだに無自覚でいられるあたりは個人的にイチ押しです!)や、ぶしつけさの光る投稿タイトル命名のセンス(「真性共産主義者、~」「~しましょう。」!)さらに細かいことを言えば、読点(、)をまったくと言っていいほど用いない(一投稿にひとつあるかないか!)、氏独特の文章へのこだわり(これが氏の言われる「表現力豊かなわかりやすい文章」の秘訣なのでしょうか!)等、私には深く考えさせられることばかりでした。
 しかしながら、私がせっかくあれこれ問いかけてみても、氏から返ってくるのが「あなたの問題意識がよくわからない」(「文章はよく読みましょう。」とは言いますまい!)「あなたの論じた多数の点全てに答える気力はもはや私にはありません。」といったつれないお答えばかりでは、さすがに興も醒めようというものです。
 そこで、氏も「物言えばそれは全て自分に帰ってくるということ」を学ばれたということですし、それを潮時に、私もこの投稿をもって氏のお相手を辞退させていただこうと思います。

 最後になりましたが、投稿タイトルからして「文章はよく読みましょう。」という他人への注意の呼びかけで始められる氏であれば、この「さざ波通信」がいわゆる“不破政権論”(氏なら説明は不要でしょう!)への批判をひとつのきっかけに開設されたことは、当然ご存知のことと思います。氏の次回の投稿においては(氏が「最も軽蔑」する私のことなどかまわずに)、関連する「さざ波通信」各号の論文なども踏まえたうえで、(政権「参加と離脱の決意にこそ政治家、政治集団の真骨頂がある」云々といった一般論ではなく)日本の現状況下でラディカルな変革を目指す勢力が、その原則を失うことなく政権にアプローチするための具体的方策を、ぜひともご教授ください。