さざ波やその他のサイトがそれこそ百花繚乱である。
しかし今この国が「戦争する国」に大きく舵を切り替えようとしている時、私達がすべき事は何か、何をなすべきかが問われているのに、これらの大半は体よい逃げ口上か、自己満足か不満のはけ口でしかないようにしか思えてならない。
闘いの実践を抜かした弁論は、権力者にとっては痛くも痒くもないし、何かを得ようとしてこのサイトを覗き込む人にとって、有用な回答やヒントとなっているのだろうかと思うと、正直なところ疑問符だらけである。
闘いを終えて、それこそくつろぎのコーヒータイムとしてその時の思いを連ね、訴えるのならまだいい、しかし現実には批判のための批判、自己合理化のための投稿があまりにも多いように思えるのだ。
小泉のサミットでの多国籍軍への参加表明などは法治国家として決して許されるものではない、しかも今これまで私たちが立脚して来たあらゆる価値感が蹂躙一掃され、否定され、覆されようとしている時、傍観し関係なしとせせら笑いものに明日を言う権利はない。
だが与党の揺らめきは感じても野党の怒りを感じることが出来ないでいる。
有事7法案が成立し3協定が可決され、有事体制が完成した時、私たちに自由や個人主権が許されるとでも思っているのか?
今でさえ権力が陰日向に暗躍介入し、監視カメラがあらゆる方向に目を光らせ、電話は盗聴され、携帯すら意のままにならず、GPSで行く先々が把握され、隣組復活の様な安全の維持を口実とした戦前型治安体制が構築されている時、声をあげていくのは私たちの義務である。
何もしないであっけらかんと、自己の自由が満喫出来ると信じ込むほど犯罪的なことはない、私たちに本当に自由があるのか、保証されていると思っているのか。
既にこの国には小泉純一郎以外自由な人間はいないのではないのか?
選挙だって投票の自由は失われている、民意の反映の機会は既に大半失われている。
今日、20代半ばの青年に会った、街頭での有事法案反対と自衛隊イラク即時撤退を求めての署名活動の中である。
彼は殆ど全て世の中の動きを知り尽くし、察知していた、行動の必要性を感じ、目の前をそ知らぬ顔して通り過ぎる人びとにいらだちを感じていた。
父親は共産党員だいう、しかし「今何もしない」と怒っていた。
そして彼は言った「こいつらに、今何もしないで後になって後悔するなよと言ってやりたい」と、率直である。
今、キャンパスの大半は静かである、立看もなければアジテーションする学生もいない、クラス討論しても学生運動には否定的で自衛隊のイラクからの撤退を支持する意見は3割にも満たない。
そして労働組合の青年部も更に静かだ、組織動員にはしぶしぶ参加するが、自分では何もやらないし、何もやれない。
彼の怒りはあまりにも当たり前で率直だった、何か短時間では表せないものをかなり持っているように感じた、そして様々な知識を持ち、批判力も旺盛で鋭かった。
世の中には彼のような怒りと感情を持ちながら、内在化させられている若者が多いのではないのか。
私たちの曖昧で中途半端な行動に魅力を感じない若者が、ウンといるのではないのか?
私たちの現状維持に諦め、愛想尽かしをしている若者が多いのではないのか、私たちは余りにも若者の心を知らなさ過ぎるのではないのか、もっともっと若者の中に飛び込んで行くべきではないのか、たった一人の若者と会っただけなのに様々と考えさせられる一日となった。
そしてこのさざ波に等に安住していたら置いてきぼりを喰らうぞ、の思いでも一杯となってしまった。