前投稿で「天皇制は君主制か」に関する『さざ波通信』37号の記事を執筆さ
れたS・T編集部員への敬意を表した際に、私の意見の実質的な噛み合い方が正確に
伝わらなかったかも知れないと反省し、補足します。
法解釈学(実定法に即して法的諸問題の正当な解決を探究し、そのために諸原則を
基礎づけ、体系化しようとする学問。金子宏他編『法律学小辞典 第4版』2004年1
月有斐閣刊1086頁)上、実定法規の文言にない概念(例:君主制)を立てて、実定法
上のある特定の制度(例:象徴天皇制)がそれに含まれるか否かを検討する場合、
「何のためにそのような検討をするのか」ということと切り離せません。したがって、
このような検討に関して最も重要なことは、「君主制にあたる」とか「君主制ではな
い」とかいう結論ではなく、それが何を最終的に狙って言われているかという「議論
のベクトル」こそが最も重要だということです。だから、結論に過ぎない「非君主制
説」が、学界の多数説かどうかそれ自体を検討することは、あまり意味がないという
ことです。
一例を挙げると、君主制の歴史的研究(その形態や歴史的変化)をしようとする者
から見れば、歴史に実在した君主的諸制度をかなり広く取り込めないと意味がないわ
けで、必然的に「君主制」の間口が広くなりがちです。例えば、「君主」に関する憲
法規定を持つ制度全般を「君主制」と定義することだって、可能なのです。これに対
して、政治権力の現実的行使主体である自然人が誰かという見地から「君主制」を定
義して研究しようとすれば、民主主義の歴史的発展とともに政治権力が名目化した君
主制を広く取り込めば、政治権力一般の研究に帰着してしまうので、「君主制」の間
口は狭くしないと意味がありません。
実定法である現行憲法が規定している「『天皇』制」(一応、天皇に関する諸規定
の体系を「制度」と呼ぶことにします)が、「君主制」に含まれるかどうか一義的に
判断できるという前提に立っている論者は、恐らく必ず前提である「君主制」の定義
を明示しているはずです。そこの統一が厳密に図られた上でなければ、「君主制説」
「非君主制説」の数的比較はできないということです。
そして、まさにS・T部員が『さざ波』の労作で解明されたように、「非君主制説」
を採っても、現支配層による天皇の政治的利用に有効な歯止めをかけることができる
わけではありません。むしろ「国家および国民統合の象徴という特殊な世襲制国家機
関であり、しかもその世襲家系は、旧体制で統治権を総攬した天皇家である」という
異常な存在の印象を薄めるだけに終る危険が大きいとも言えるのです。
逆に、「君主制説」を採ったとしても、「君主制は憲法の基本原理と抵触するもの
を内包しているから、天皇の権能規定・憲法上可能な行為の範囲は極めて限定的に解
釈すべきだ」とすることは可能です。「憲法規範に矛盾があるはずがない」という極
端な法実証主義者でもない限り、現実の憲法規範が、一定の歴史的制約を受けた政治
的妥協の産物であると認めるのに困難はありません。何も現行天皇制が「君主制」だ
としたら必然的に、「天皇制は戦前よりは制限されているものの、基本的には『国体』
は護持された」となってしまうわけでもないのです。
もちろん、「非君主制説が多数か少数か」という議論が行われている実際的理由は
理解できます。自分の主張に沿った見解が「多数説」であれば、国民を説得しやすい
からです。それでdemocrat氏も、自説が「少数説」だといわれて逆上してしまったの
でしょう。
しかし私が述べたいのは、democrat氏が法律専門家であるならば、少なくともいま
私が述べてきたことは熟知しているはずだということです。にも拘らず、「少数説だ
とはどこに書いてあった・根拠を示せ」と憤慨されたのは、本当に大人げない所作で
あり、法律の専門知識を盾にとって議論の本筋を迷わせるものだということです。実
際、そのため愚等虫さんやS・T編集部員氏が費やした労力を考えると、私は憤慨し
ているのです。
ここで大事な議論の本筋とは、現行天皇制を「ブルジョア君主制の一種」と規定し
「君主制の廃止」を「革命の政府」段階における政治的獲得目標と定めた61年綱領の
規定が「不正確」なものかどうか、憲法典上国政に関する権能を有しないとされてい
るからという理由で天皇制を「君主制」ではないと断定することが、日本共産党が理
論的基礎とする科学的社会主義の見地から正当なのか、ということでしょう。それに
関連して、現実の日本社会における現行象徴天皇制の機能を科学的社会主義の見地か
らどのように把握するかが、議論されるべきポイントだと思うのです。
日本共産党が天皇制には反対だとしながら、その廃止を政治的プログラムとして明
示できず、当面する民主主義的変革の課題からも外し、「将来、情勢が熟したときに、
国民の総意によって解決する」という訳の分らない態度表明をせざるを得ない社会的
状況はなぜ生じているのか、憲法学界の有力な学者が、この「君主制」の問題にこぞっ
て「定義による」説に傾き、自分の見解の明示を避けているように見えるのはなぜか
が、ここで考慮されるべきでしょう。私にはむしろ、「親しみやすい皇室」という形
で天皇制に対する国民意識が絶えず醸成されている現状に、「頭が下がっている」よ
うに感じられるのですが。
どうなんでしょうか。