劣化ウラン問題は、さつき氏の冷静な科学的分析で誰が見ても決着がついたと 思っていたのですが・・・。大歩危氏の再発言を順を追ってみてみましょう。
1.(イラクにおける)自衛隊の行動を、・・・全ての報道誌が評価するようになった
ら危険である。同様に、劣化ウラン弾を一様に・・・論じることには問題がある。
氏自身は自衛隊の行動を評価していたはずですが、公平さを装う方便?? 今まさ
に、日本の世論全体が自衛隊派遣容認の方向へと大きく動き出していることに私は危
険を感じます。今日のように世論が為政者の主張にいっせいに同調を始めるようになっ
たら大変危険です。その理由は、権力の暴走に対する歯止めがきかなくなるからです。
今、暴走とも言うべきアメリカのイラク戦争で劣化ウラン弾が使われているとき、そ
の危険性を指摘して使用禁止を求める市民の運動は、そのような権力の暴走を抑えよ
うとするものです。
権力の暴走を防ぐための市民の論理を逆手に使って権力者側の行動を支持し、市民
運動に矛先を向ける氏の議論は確かに捩れています。
2.劣化ウランの放射能で外部被曝による障害は考えられない(ので使用を認めるべき
だ?)。
低レベル放射線の数世代にわたる生体への影響については未解明な部分が多く、現
在も研究が継続されていることは大歩危氏も知っているはずです。安易に安全と言い
切れるものではないからこそ、法による規制の対象になっているのです。
科学者であれば、当然慎重な立場に立ちます。計算をして確かめる、さつき氏の科
学者としての態度に敬服します。百歩譲って、大歩危氏が劣化ウラン弾の安全性に確
信をもっていたにせよ、イラクやコソボでのNGOの活動報告を知れば、まずその安全
性を疑い、とりあえず、使用を止めるように主張するのが「慎重な」態度でしょう。
それとも大歩危氏は、劣化ウラン弾を使うことによほど大きな人道上の益があると
考えているのでしょうか???
3.内部被爆については、・・・人体に悪影響を与えることは懸念されます。
さつき氏は、大歩危氏が引用した文章の後に「しかし、一旦破壊されて微粉末にな
ると、表面積が増えるので、極めて危険な物質に転化します。・・・」と続けていま
す。ここを読み落としてもらっては困ります。
大歩危氏もこの危険性を認めるのなら、「懸念されます」ではすまないでしょう。
大歩危氏は遂に、自分とさつき氏の認識が大して変わらないなどと言わざるを得ませ
んでしたが、さつき氏は劣化ウラン弾の使用禁止を求めているのに対して、大歩危氏
は使用禁止を求める側を非難し、事実上使用を容認する立場に立っています。大違い
です。この点も捩れています。
実際にこの危険にさらされている人たちにとって、「悪影響を与えることは懸念さ
れます」という、いかにも役人らしい発言は、怒りを抜きには聞けないでしょう。
4.そのうち汚染調査・統計調査が行われ、(害がないと言う)結論が出るので、それ
を待っていればよい?
どのような統計調査を誰がいつどこで行うと言うのでしょうか? 全く不明です。
被害を受けている可能性のある人々はいつまで待つのでしょう? いかにも日本の役
人らしく、甚だ呆れました。大体、統計的(検定?)手法では、「偶然ではない」と
言う結論は出せても、「因果関係がない」という断定は、簡単にはできないはずです。
因果関係あり(偶然ではない)とする調査結果を疑う氏が、どうして「因果関係がな
い」とする調査結果の出ることをそんなに確信できるのでしょうか?
「外部被爆で・・・、広島や長崎の1万分の1以上の汚染・・・」、おやおや、上
では内部被曝を問題にしていたのにここでは外部被曝に限定する、その自在な使い分
けは納得できません。一体、1万分の1の根拠は何でしょうか? 揚げ足を取るよう
ですが、1万人の犠牲は許せないが1人の犠牲なら許せるとでも言うのでしょうか??
?
食物連鎖による生物濃縮については、その地域の生態系について豊富なデータに基
づくシュミレーション等を行なわなければ判断できるものではありません。無いと結
論するにはよほど「慎重」な態度が必要で、通常はあると考えておくべき問題です。
5.現実に直面した広島・長崎の方やイラクの人民の視点から、真に危険な場合とそ
うでない場合を語るべき
氏は内部被曝の危険性を認めているのに、なぜイラクの人民が内部被曝の危険性に
さらされているという現実を見ようとしないのでしょうか? もはや何を言わんとし
ているのか支離滅裂です。さつき氏の5/29の発言を、もう一度冷静に読めば、このよ
うな非難が的外れであることがよく分かるでしょう。
いずれにせよ、大歩危氏も認める危険性のある物質を砲弾としてばら撒いているの
はアメリカです。イラク人民の視点に立つなら、アメリカに対して慎重さを求めるべ
きところを、逆にアメリカの行為を非難する側に対して慎重さを求めるという氏の論
理構造は、捩れているという以上に狂っています。