前回(7・28)は初めてこのサイトをのぞいて、そのまま投稿したので、まとまりの無いことを書いてしまいました。ちょっと補足します。
「幸せとは・・子供を元気で戦場に送り出すこと」などと書きましたが、これはもちろん、極めて単純化した議論です。もしも日本がこのまま「戦争ができる国」に突っ走ったとしても、総力戦はありえないので、徴兵制が敷かれることは無いでしょう。
しかし精神的には、兵隊に引っ張られるのと同じ状況になりつつあると思います(君が代斉唱に協力しない教師の処分や、日常的な憲法原理のあからさまな否定)。これは実に恐ろしいことになった、そう感じています。
これまでの左翼の運動の過ちが、この事態を許したのだ、という重大な責任を感じないとしたら、そんな人間に指導者を名乗る資格はありません。党内外の心有る人々が力を合わせて、退陣を迫るべきだと思います。といっても、私は指導部の交替が絶対に必要だと言うつもりはありません。部外者だし、大事なのは現実の直視と誠実な反省だと思うので、誠実ささえ示されれば文句は無く、あとは建設的な議論を行うだけです。
しかし、そのスタート台に立つのが難しい、というか不可能に近い。それが情けなく、腹が立ちます。それは結局、指導者達の基本姿勢(人間的な資質)に問題があるのではないかと思います。
その昔、「共創和解」という出来事がありました。私は「何をバカな!」と反対しました。創価学会の体質を少しでも知っていれば、彼らの言うことの1語も信用できないことがわかるだろう。そんな組織と、どうして協力できるのか?そう主張する私は「評論家」と呼ばれました。情けないレッテル張りです。朝もはよからビラ配りに精を出す評論家がいるか?
その後「70年代の遅くないうちに」「80年代の間に」などと甘い期待を持たせて党員や支持者を動員しながら、現実にはそれを不可能にするような左翼内部のけんかに明け暮れた指導部を、評論家でなく何と呼んだらいいのか?敵を前にして、不要なだけでなく有害な仲間内の下らない論争にむきになった、その例はいくらでも挙げられますが、今はやめておきます。
甘い認識で取らぬタヌキの皮算用をしながら、愚かな論争に夢中になることで、党員や支持者の努力を無駄にした、その重大な責任を明確にしないと、先に進むことが出来ません。
例えば、公衆便所に反戦の落書きをした、住宅にビラを配った、そんなことで何十日も拘留されて、有罪判決を受ける。こんな異常な事件が、新聞もろくに報道しないような、あたり前の出来事になっている。実にとんでもない世の中になってしまいました。それを許した責任を指導部が認識しないとすれば、それは自分がビラ配りをしてとっつかまることは有りえないので、他人事と考えているから、としか思えません。ファシズムの進行を指導部が許している、そう言わざるを得ません。
その様な事態に対して、指導部が責任を負っていると、なぜ私が考えるかといえば、硬直した姿勢・発言が、マスコミにおける好意的な部分を遠ざけたことや、権力の分析を正確に行って法曹界への影響力を有効に活用するのに失敗した、党の姿を魅力あるものにして支持基盤を広げることに失敗して不当逮捕などに対する抗議に一般の人々の支持を得られなくした、などの理由です。
その結果進行している恐るべきファシズムへの動きに対して、ごまかしの無い現状分析と、責任の明確化、そして対抗策を、党内の論理や規則や用語などすべてとっぱらって、広く深く、そして誠実に議論しなければならないと思います。そのような議論ができなければ、歴史のゴミ箱入りでしょう。