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尾張さんへ

2004/08/13 阿Q 50代 自営業

 私は他人と意見が一致することは滅多に無いのですが、今回は全く同感です。建設的な議論が成り立たないアホな相手には「あんたはゴミですよ。ゴミはゴミらしく黙って地面にころがってなさい」と言わなければならないことがあります。

 ただ、私はこれまで長年にわたって様々な議論をするなかで、相手が知識も理解力も謙虚さも無いバカであるために、情けない結果に終わったことも多いのですが、私の無知が原因だったこともあり、また私が生意気にポンポン言ったために相手の気分を害して冷静な議論ができなくなった、ということもあったと、最近反省しています。どうにもならないアホな相手は「失せろ!」でいいのですが、そうでない相手は、どれほど考え方が違っても、粗末に扱うべきでない、落ち着いて話し合う可能性を極力探るべきだった、と後悔することが多いのです。

 そのため、地を出して無用な対立をもたらすのを避けようと、心がけています。それに、字は読めるけど文章を理解する能力がなく、私が何を言いたいのかわかりもせずに、枝葉末節に引っかかって揚げ足を取るようなつまらないストーカーを相手にしていると、自分まで堕落してしまいます。だから、最初の1回だけは相手しても、相手が自分のバカさ加減を自覚しなければ、それ以後は相手しません。相手が何を書いているか知らないけど、知ろうとも思わないので読みません。

 これは自分が相手と同じレベルに落ちて、口汚いことを言ってしまうのを避けるためです。それでも、議論が成り立たない相手に自分が何であるかをわからせるために、きつい言葉を使わなければならないことがあるのは事実です。しかし「精神障害者」はまずいと思います。私は「差別用語」などと言葉狩りをすることに反対してきましたが、それは、言葉の適切さは個人個人が判断すべきだし、言葉は歴史的に積み重ねられてきているので、安易に禁止したりすべきものではないと思います。

 その意味で、「きちがい」という言葉を使えなくしたことに、私は不満をもっています。しかし「精神障害者」はそれと比べて学術用語というわけじゃないけど客観的な性格を持っているので、それを悪口に使うのは好ましくないように思います。精神障害者でもないのにいかれたことを言うアホを精神障害者と呼ぶことは、苦労している本当の精神障害者に失礼ではないかと思います。

 要するに私が建設的な議論というのは、「自分が間違っているかもしれない」という前提を基礎にした謙虚な議論です。だから理想的には、自分の間違いを相手に指摘されることは喜ぶべきことです。それによって、今まで自分が得られなかった、より高いところに到達し、より深くものを見ることができるようになるわけですから。

 共産党の問題についても、様々な政策の問題、基本方針、組織原則、組織運営など、多くの問題が指摘されていますが、私がそういう議論に乗り気がしないのは、大元の「建設的な議論」が不可能な体質を温存させたままでは無意味だと思うからです。

 尾張さんが言う民主集中制などの底にある考え方ですね。要するに何でもオープンに言い合って、あらゆる可能なものの中から最も説得力のあるものを選択するのではなく、上からの押し着せを軸にして、それを受け入れるかどうかを話し合うようなものは、議論といえないということ。そして異論を唱えるとレッテルを貼られて議論がチョンとなる。それで決まったことには従え。それは民主でもなんでもありません。

 そんなわけで、私は良い歳をして青臭い書生論のようなことを言っていますが、今こそそういう「個人の尊重」「他人への敬意」「真実への謙虚さ」のような青臭い精神に立ち戻って考えるべきだと思っています。そうでないと、回りで自警団や「日本精神発揚連絡会」みたいなのを結成して「日の丸を掲揚しないのはどの家だ」なんてパトロールするようになっても、狭いところで「赤旗の部数が減少しているのは努力が足りないからだ。住民の中には自民党政治への怒りが強まっており、潜在的読者は多い!」なんて話をするようになるんじゃないでしょうか?