原水爆禁止運動が本年も分裂状態であることに多数の憂慮が寄せられています。とりわけ、原仙作様(8.8)の「対抗戦略」欄でのご説はいつもながら傾聴に値します。
一点付け加えるなら、分裂後の40年間でも、1970年代後半から1980年代前半にかけて統一した時期もあったことです。言うまでもなく核軍拡競争が激化し、NHKでも「核の冬」が連日放映され、立場を超えて核兵器廃止を人類の生存をかけて望まざるを得なかったのです。その際、日本生協連や日本青年団協議会、被爆者団体協議会などの、特定政党による専制のない団体が重要な役割を果たしたことが重要です。1982年五月には、反核集会が40万人規模で成功し、政党がらみではない草の根の反核運動が未曾有の高まりを示しました。当時私は学生で署名を求めるとクラスの半数以上が気軽に書いてくれました。反核運動に取り組む人々が米国内にある国連本部での非核の会議に出席しようとして、レーガン政権下の米国側から「親ソ連分子」としてビザ自体が発給されなかったことも思い出します。同時に、日本の被爆当事者が国連で勇気ある発言をしたことは各国に喝采され、日本政府が「究極的に廃絶」を述べると落胆が広がったとされています。つまり、国民主体に運動を広げる意義が大変重要なのです。
付言すれば、このブリッジ統一をぶちこわしたのは共産党でした。デモでの参加団体旗の使用の可否をめぐり、実行委員会に難癖をつけ、応じない日本平和委員会、原水協幹部を無理矢理ねじふせようとしました。小笠原氏、服部学氏、長谷川正安氏らは処分されました。吉田嘉清原水協事務局長を「親ソ連分子」として党から除名しました。抗議の意味で、古在由重氏、草野信男氏らは党を離れました。
というわけで、20年分裂のまま、核拡散が続く中、是非過去の失敗を忘れず「国民主体」でとりくむべきと思います。