今世界で猛威を揮っているイデオロギーは、新自由主義です。例の「自己責任」 論は新自由主義のキーワードで、「自分の人生には自分で責任を負いなさい」という、 ありがたいお説教です。
生まれた時からずーっと、エリートのオヤジのお陰で何の不自由も苦労もなしに楽 に暮らしてきて、同年代の若者達が送り込まれた地獄のベトナム戦線にも行かず、あ くまでノーテンキに生きてきたブッシュや、あいつを利用して国家予算をくすねても うけるハリバートンなどの大企業経営者、そしてその連中とつるんで国家を一部の人 間の利益に奉仕させる官僚たち、こういう連中が、国民に対する重大な責任を全く負 わずに、弱いものに自己責任を求める。それが新自由主義です。
政治家がたちが悪いのは仕方が無いし、あいつらは(建前では)選挙でやめさせら れるのでいいとして、我々の税金で飯を食い、選挙で選ばれたわけでもないのに勝手 なことをしており、やめさせることもできない官僚は我々にとって重大問題です。
年金問題で明らかになった、社会保険庁の役人達のデタラメな金遣い、重大なデー タを隠して、国民をだましてインチキ政策を起草して中味を読みもしない政治家に渡 して議決させたデタラメな仕事振りなど、これまで無数に繰り返されてきた役人の犯 罪(薬害エイズなど)リストは増える一方です。
しかし無責任で危険な官僚機構は、役人の世界だけではありません。企業にも政党 にも深く根を張って、シロアリのように組織を蝕んでいます。三菱自動車で優れたエ ンジンを開発した人たちの努力も、まともな仕事をせずに自己保身だけを考える官僚 的管理職たちによって、台無しにされました。いくら良い仕事をしても、そんな連中 によって組織が腐ったのでは、自分の仕事の成果がゴミタメに捨てられるようなもの です。さぞくやしいでしょう。共産党でひたすら回りの人たちに支持を訴えつづけて 来た人たちも、現実を直視しない官僚的な幹部のボーンヘッドのおかげで支持が減っ たら、くやしいでしょう。
原発も、そもそものはじめから官僚によってゆがめられてきました。電力業界には、 リスクが大きく、(放射性廃棄物の処理と廃炉を含む)コストがどこまで膨らむのか、 予想もつかない厄介な原発は止めたい、という声もあるようです。それでもやめるこ とができずに、どんどん手におえなくなる不良息子を家から放り出せずに飯を食わせ てやる親のように、面倒を見つづけています。なぜか?
自民党と旧通産省系の官僚たちに、核武装の可能性を残すためにも原発を推進しな ければならない、という申し送りがあるからではないでしょうか?それ以外に、専門 家からも出ている様々な批判、疑問、多くのトラブル、更にプルサーマルをめぐる袋 小路的な深刻な問題にもかかわらず、相変わらず何事も無かったかのように既定の方 針が堅持される理由が、説明できません。
去年の初夏は、東電の原発の点検のための運転停止で大騒ぎでした。メディアはす べて東電を批判しましたが、私はおかしいと思いました。メディアは資本主義の論理 で考えているはずです。だったら、原発停止による膨大な損失を避けて利益を増やそ うとした経営者の判断は、株主の利益を守ったのだから当然だ、という見方もできる はずです。それに対して、「安全優先だ!」と方針を変えさせるのが役人の責任です。 ところが役人は何もしなかった。審議会などに顔を連ねてえらそうなことを言ってい る専門家(学者)も同罪です。
原子力安全保安院などとご大層な名前をつけながら、それに見合った仕事は何もし ていません。今回の福井での事故でも、水流が乱れて菅壁が削られることが当然に予 想される、悪い設計にもかかわらず、何十年も点検の必要なしとされていたとか。こ れは監督官庁が監督らしい仕事を何一つしていなかった、ということです。
いくら厳密な安全マニュアルを作成したところで、それを作成する際に基礎とされ た認識が間違っていれば、その一見立派なマニュアルはデタラメな前提の上に築かれ た砂上の楼閣です。そんなものを守ったところで、安全は保障されません。その基本 的な認識、安全対策の基礎が、最新の知見に鑑みて適切かどうかを判断するのが、監 督官庁の責任です。ところがやつらはその責任を果たす気も能力も無い。その結果が あの事故です。
役人どもは安全対策を関西電力に丸投げ、関西電力は実際の点検作業を下請け業者 に丸投げ、ところがその基準となる指針やマニュアルは、無責任な役人や企業の管理 職が作成し、それに従って作業をする人たちは、その指示の根拠もわからないまま従っ て、事故にあうのです。