これまでのむぎむぎさんとのやりとりに注目していました。ここで私の考えを少しだけ述べさせて下さい。
核兵器廃絶をかかげて結成されたはずの団体が、特定の国の核兵器だけは支持すると言い出したら、もうそのような団体の存在意味はなく、分裂するのは当たり前です。そうした分裂を招く主張の言い出しっぺである日本共産党について「明確な誤り」と書かれた草の根のひとりさんにお聞きします。
日本共産党および「原水協」は、当時の分裂の責任について、どうしてきちんと自己批判できないのでしょうか。本来なら、被爆者と国民の前にひれ伏して謝るべきです。まさか、分裂を固定化するような原発の問題を持ち込んだ者に謝る必要などないとは言わないでしょう? 謝罪すべき相手は、「原水禁」ではなく、まずもって被爆者と国民なのです。そのことをむぎむぎさんはおっしゃっていると思います。
ご指摘のように、「原水禁」は核兵器と原発をセットにして反対する運動をおこなっています。込み入ったことは別の機会に譲りますが、私はこちらの主張に共感します。しかし、草の根のひとりさんがおっしゃるように、核兵器と原発をリンクさせるのは、ある種の強固な理論的・思想的背景がなければ納得されるものではなく、反核兵器運動の大きな広がりにとって障害となることは明らかです。したがって現時点では、反核兵器運動の基本方針に原発の問題を持ち込むべきではないと思います。
しかし、私は次のことに疑問を持ちます。実は、「原水協」の中にも、チェルノブイリや劣化ウラン弾の問題に熱心にとり組んでおいでの「科学者会議」の有力メンバーの方がいらっしゃいます。核兵器の問題に熱心であればあるほど、原発と核兵器の切っても切れない「縁」に気付き、普通の意味での核兵器ではないけれども劣化ウラン弾も見過ごせなくなる、そういう境地に行き着くのは自然なことだと思います。ところが、そうしたとり組みの成果を「原水協」関係の集会(勉強会など)の場で発表しようとしたら、何故か上部からクレームがついて、内容(特に発表タイトル)の変更を迫られたということです。別に運動の基本方針にしようという訳でもないのに、これはどうしたことでしょう。
放射能・放射線障害の問題は、まず広島・長崎の惨禍の中から研究が始められました。この現代においてなお新たに発生し、世界的規模で広がっている被曝の問題は、常に広島・長崎との対比において論じられています。今のままの硬直した運動では、「原水協」の理論的立ちおくれは、やがて世界的な水準からの脱落という事態を招くと危惧します。
最後に、ご存知のように、「原水協」、「原水禁」の他に、もう一つ「核禁会議」というのがあって、こちらは、核兵器廃絶の運動とともに「原子力の平和利用を推進する運動」にもとり組んでいます。つまり、「原水禁」とは逆の方向性を持っているわけです。そこで、もし「原水協」が、最初の分裂について第一義的に責任を負うものとして、被爆者と国民の前に真摯に謝罪し再出発を誓うなら、名実共に核兵器廃絶運動の機軸として「原水禁」と「核禁会議」の仲立ちもするような役割をはたす組織へと脱皮する足がかりが得られるかもしれないと思うのですが、いかがでしょう。