2004/10/25 人文学徒さまへ
確かに物事を否定するのは易しく、さらに物事の断片を取り上げて否定するのならもっ と容易なことだ。
私の意見を採り入れて下さって有り難うございます。
そこで、党の未来への僕の夢という形で、エッセーを試みてみることにした。骨子だ けの不十分なものであり、思い付き的な部分、一面的な部分も当然あったりするはず だから、恥をかくことは承知の上で。言い出しっぺはいつも損なもの、特に「左の左」 の方からのご批判はさぞ厳しかろうが、発展的な議論なら歓迎したい。
言い出しっぺは、勇気が居るし、多くは実行担当者にならざるを 得ないと思います。
まず、「科学的」社会主義、その哲学という「科学的真理の党」をやめて、中期的行 動目標の一致に基づくもっと幅広い党に変えることだ。
私は、「科学的社会主義」に「科学的(な)社会主義」と、(な)という一字を入 れるだけでも、 日本共産党は変わりうると思います。 これが科学だぞ。と大上段に構えている尊大な態度が、科学をきわめて行こうという 平たい態度に変わると思います。
「科学的」社会主義の背後にある唯物論的「真理」の標榜という現在の行き方は、異 なった思想の持ち主、とりわけ宗教者を仲間自身としてははなから迎え入れないと宣 言しているのだという意味で、愚かなものだと思う。「狭い人々だけ」、セクト主義、 独善とも見えていつしか力も消えて、「少数精鋭」からも程遠い政党となってしまっ た。
現在の科学的社会主義は、マルクス主義本来の弁証法的唯物論に従っていないとこ
ろに問題があります。宮本時代には、弁証法的唯物論が人民大学で教えられていたの
ですが、マルクス主義の哲学を不破さんが捨ててしまって、党員一人一人の考える力
を奪い、自分が神になってしまったところに問題があります。
現在の党は、不破教であって、科学的な党ではありません。
宮本時代には、創価学会とも手を結ぼうとしたのですが、科学の党ならそれが出来 たのでしょうが、宗教党同志では、手を結べるわけがありません。
社会主義概念自身を綱領に謳うか否かは難しいところだが、これには従来の唯物論哲 学がこびりついていることでもあるから、入れない方が良いと思う。だから当然、党 名も変える。よって、現党員全員対象の再加入手続きということになる。過去の分派 活動による除名、除籍者にも広く再加盟を呼びかける。むしろ、それらの人々も含め て現在の党員、非党員を問わずより広い有志とともに新しい「地上の問題での一致」 を目指して、理念、綱領、規約を作り上げていく方が良いだろう。その討論過程で右 翼や極左などかく乱者も侵入してくるかも知れないが、しばらくはそれも良いではな いか。多様さが不足して、民主主義的に沈滞していた今までとはまったく逆の印象を 社会に与えることにもなるし。そういう場が「党の民主主義的自己変革」への第1関 門、試練と心得て、しばらく理念問題をゆったり構えたら良い。なお、過去の民主集 中制下の最高幹部たちはこの討論のイニシアを取らない方が良いだろう。
マルクス主義は捨てる必要はないと思います。史的唯物論は間違っていないと思い
ます。レーニン主義を捨てればいいのだと思います。
実は、不破さんだって、レーニンの間違いは解っているだろうと思いますが、それ
を言ってしまうと、80年の日本共産党の歴史が間違っていることになるので言えな
いのではないかと思います。
80年の歴史を壊さないようにして、内部だけサイデリアをする うまい方法を中央は探っているのではないかと思います。
問題の中期的行動目標には僕としては、従来の革新3目標のようなものに弱者救済な どの考え方を加味、強調して、さらに反戦平和、原水爆禁止、地球環境問題、子育て 問題、発展途上国への国際的支援、国連の民主化などを大きな柱として入れて欲しい。 また、文化的かつ倫理的香りがするようにもして欲しい。なおここに、階級闘争的考 え方、労働者「寄り」などの感じは無理に付与する必要はないと考える。関連して、 「資本家をばら色には描かない」を過大に扱うことも止めようではないか。「資本家」 の範囲はきわめて限定し、「個人でなく立場を告発する」とマルクスが述べたような そんな原点に立ち返って、彼らの「ある『場合』をのみ告発する」という配慮がもっ と必要だと思う。
プロレタリアが政権を執れば、必然的に上記のようなことは、実現出来ると思いま す。どうしたら、政権をとれるか、それは、日本共産党がマルクス主義に立ち返るこ とが一番早道だと思います。
「地上の問題」で行くということは、そういう問題で大は世界から小は地域、一職場、 一個人のためになどまで、大小の成果を上げることで国民、世界から評価してもらお うという行き方である。
地上にこだわるのはおかしいと思います。政治は地上の問題ですから、これからは、 宇宙の問題も入ってはきますけれども。精神的な問題は、各人の自由です。今でも共 産党の幹部は、仏式や、キリスト教的葬式をしていると思います。
「私たちは科学的真理の体現者だ」と党内外に広める、単なる学習や宣伝が第一とい う行き方は採らないということだ。真理説得、現状告発、政策宣伝、党宣伝など「認 識、約束中心の運動」ではなく、行動目標の実現、そういう実力の涵養、その誠実な 実行を旨とする政党と言っても良い。
科学真理の体現者というのは、思い上がりだと思います。人間は 誤り多い動物です。迷いながら生きているということを表明すべきです。そして多く の人の知恵を集めなければすぐに行き詰まってしまいます。
昔よく言われた「護民官」として、弱者救済などに多くの成果を事実生み出していき たいのである。各支部活動はもちろん、赤旗や地方議員や専従職員なども、党宣伝か らこういう護民官活動自身、そのための熟練、組織作りなどへと、そのシフトをチェ ンジしていき、こういう成果全てのための実践交流、その情報の蓄積、整理、発信に 努めることを党組織全体の日常的スタイルとするのである。
護民官と思うのも思い上がりだと思います。老人ばかりの組織で 何が出来よう。フランクに話し合って、何が問題なのかを探ることが 重要だと思います。問題を整理して政策に変えて行く、トップの頭で 政策をひねりだすのではなく、末端から上がったフレッシュな情報に 基づいて政策を決めて行くべきだと思います。
従って、末端は絶えず広範な庶民と接触していなければいけない。 仲間内でごちゃごちゃやって活動してると思ったら大間違い。
今の時代、情報はお金よりも大切である。情報重視の活動でなければならないと思 います。
また、生活護民官という考え方からすると、生活の場に根を張り、かつ民主主義的理 念を掲げる生活諸要求団体、組織、職場は現在よりもはるかに重要なものとなる。全 国の支部などがそういう団体の「勝手連」になってもよいから、相互発展を図りあっ ていきたい。「勝手連」という意味はこの場合、そこの自主性をとことん尊重すると いうことであって、過去に共産党が生協、民主主義文学同盟、原水禁大会、民医連の 病院、民主主義的な出版社などに行ってきたような、そこの所属党員幹部なども使っ た「ひきまわし」をけっしてしないということである。ということはつまり、連携す る生活諸要求団体を、いわゆる少しでも「良心的な所、人々」を含めて徹底的に広げ ていくという、そういう宣言でもある。
護民官という考えを捨てれば引き回しは無くなると思う。 一般庶民から学ぶという姿勢が大切だと思います。