[炭坑のカナリヤよろしく、悪い空気が充満してきたら、卒倒して見せることです。それが芸術家の務めと、たしか、カート・ボネガットが言いましたっけ。]
私は1960年安保闘争と同時に入党し、1979年炭坑のガスが耐え切れずに卒倒しました。離党。私が党に入った時は革命の移行問題については「敵の出方論」つまり敵が暴力を持ってくれば暴力革命をとる、革命が平和的に移行することが出来ればそれを追求する二つの方針をとっていました。私はそれに賛成して入党したが、第7回大会草案で暴力革命が否定される方針が出され私は反対し、離党まで反対し続けたがついに党の右傾化にほとほと嫌気がさし、その他の問題もあって離党したのです。
ただ党員である限りは党の方針に従うのが義務であり、私は党の方針が誤っているのを知っていても党外では誤った方針を宣伝してきました。これが共産党員です。だが党そのものが共産主義から離れていくならば離党するか叛旗を翻すのも共産主義者です。
カール。リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグがドイツ社会民主党が第一次大戦で排外主義の立場を取り党議にしたがって戦時国債発行に賛成したが、しかしバーゼル宣言における方針、来るべき戦争に当たって自国政府を支持してはならないという決議こそが正しいと信じたので党議を蹴り第二回投票で反対しスパルタクス団を結成しました。
私はそのような劇的な立場の人間ではないのですが、たとえば今日本共産党がイラク侵略戦争に対して取っている立場は明らかに誤っている。仮に党員であるならば離党するだろうと思います。
1979年の離党以来すべての大衆団体、美術団体を全部辞めました。そして今後も画家は政党には入らず、自分の信じたことを、言い切ることが大切であると考えています。芸術家は時々の一党一派の立場や方針にとらわれないところに価値があると考えます。歯に衣をかぶせないしその時の事情を考慮しないのです。
私には在党時代の多くの党に従って犯した過ちが苦い思い出です。