草の根のひとりさんが真摯に原水禁運動に取り組んでいらっしゃること、よくわかりました。本当に頭が下がる思いです。
1982年、私は「平和のための広島行動(反核40万人集会)」に参加しました。真っ赤なビニールバッグをひっさげての小田実さんの演説は迫力がありました。大江健三郎さんの話は心にしみました。
この82年は、原水禁大会が一時的に統一を回復していた時期で、同年東京でも大阪でも大規模な反核集会があり、海外でもニューヨークでは120万人が集まりました。それが(表向き)平和行進時の団体旗の問題などで84年の「原水協幹部粛清事件」、古在由重さんの査問・除籍へと発展し、86年から再び(9年ぶりの)分裂大会となり、今日に至っているわけです。
当時、組織のメンツを捨てて統一を守ろうとした「原水協」幹部達の態度は、はっきりいって「原水禁」の側より立派であったと思います。ところが、運動のヘゲモニーが「原水禁」に移ることを恐れた共産党中央は、その「原水協」幹部達を粛清・追放してしまった。かくして、組織だけが大事な現在の「協」と「禁」だけが残った。私としては、「原水協」を追放された人達を中心に新しい運動をおこせなかったのだろうかとも考えたのですが、むぎむぎさんへは返す言葉もありません。
こうした、運動の幅を狭める共産党の悪癖がどこから来るのか興味深いところですが、多分、「科学」の党の前衛意識からくるのでしょう。私として共産党への期待が大きいだけに、大変残念なことです。
ところで、むぎむぎさんが「広島市民は、長年の禁や協の活動の「成果」に、冷ややかです」として紹介して下さった中国新聞のウェブサイトの記事のトーンは、ちょっと違っています。
米国が強行した臨界前核実験に抗議する被爆者や平和運動団体のメンバーが、正午から広島市中区の原爆慰霊碑前に座り込んだ。夕方からは別の団体が続いた。桜が満開になりかけた中、すぐそばを通り過ぎる市民や観光客は絶えなかったが、一緒に座り込もうとする人はだれ一人いなかった。
終了間際に、一人のフランス人女性が飛び入り参加した。最初から座り込みに加わっていた米国人男性は「何と広島の市民は無関心なんだ」と憤った。
むぎむぎさんは、「広島県民は、『運動しなくても』自分たちの要求を具体的に聞いてくれる自民党など保守勢力を支持するようになったんです」と書かれましたが、被爆者の要求とは何でしょう。「原爆医療法」や「被爆者援護法」(村山内閣の時に成立)だけだったのでしょうか。やはり、究極の「要求」は、この世界から核兵器を無くすことではなかったのでしょうか。中国新聞の記事は、(被爆者援護法が成立して?)核兵器を無くすことに無関心になってしまった広島市民へ疑問をつきつけているようにも読めます。誤解を恐れずに言えば、核兵器を無くすとの究極の目標は、被爆者のためだけに掲げられているのではないと思うのです。その点だけが気になりました。
むぎむぎさんの10/2の投稿では「無茶な平和教育」という表現がありましたが、実は私も、特に小学生向けの「平和教育」は根本的に考え直されなければならないと、常々思っていたところです。この問題は9/30「ある41歳」さんの投稿とも関連して長くなるので、また別の機会にします。
広島の秋葉市長の平和宣言は大変すばらしいものでした。少数与党(?)の中で市政の舵取りに苦戦されていらっしゃると想像します。最後に、むぎむぎさんへは、広島市民として支えてあげて下さいとお願いして終わりにします。