戦争の悲惨さについてのみ触れるのは正しくない。
人道主義や博愛主義は個人的な感覚感情の問題であり、戦争とは社会と政治、その人間関係の問題である。無論、人間である以上、怒りや同情という感情から自己の行動を決めるのは当然のことであるが、それだけでは、現出している現象に振り回されるだけであり、歴史の要求を本当に聞く事はできない。
同情はするが決起はしない これは、これらの人々の責任ではない。決起してもその先が見えないから決起しないのだ。デモや署名の歴史をみるがいい!いったいどんな力があったのか!その勝利と敗北の歴史から学ぶ必要がある。
ベトナムは何故勝利し、アフガンやイラクは何故勝利できないのか。数億の署名は核兵器を廃絶させたのかどうか。答えは明らかだ。どんな運動にもそこに明確な核が存在し、その核が純粋で強固な場合にのみその戦いに勝利しており、核がない場合、どんなに多数を獲得しても敗北するしかないのだ。この核こそ共産党でなければならない。
イラクにはイラクの闘いがある。彼らは敗北や死者の山の中から、反米統一戦線をいかに構築するのかが、歴史によって問われている。彼らを統一させ、全中東と全世界の人民の共感と共闘を受けとめる核をどんなに時間がかかってもつくらねばならないのだ。
日本にも日本の闘いがある。政官財癒着構造を打ち壊しそれに代わる人民の政府を打立てることである。
唯一最後の帝国主義たるアメリカが断末魔の叫びを上げている今、それに取って代わる人民の権力がいたるところに樹立させなければならないのだ。
それまでは、歴史はイラクには爆弾と銃弾による血を、日本では人間性の崩壊と貧困化という血を要求し続けるであろう。
歴史が我々自身に変革を求め鳴動しているのだ。