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離党した元党員より

2004/11/07 諸葛均 20代 サラリ-マン(連合組合員)

私は、この5月離党しました。職場では、連合傘下労組の役員を 務めています。

私は広島県在住で、入党したのは2001年9月のことでした。
その年に小泉内閣が成立したことに危機感を覚えていたのですが、 組合が支持する社民党や民主党が、小泉政権に対して「改革の 中身が無い」といった方向での批判に留まり、新自由主義批判が なかった、ないし、民主党などは「改革のスピードを競う」といった、 新自由主義推進の立場であったことが不審であり、共産党を参院 選挙では支持しました。
そして、9.11事件後、報復戦争への動きをアメリカが強める中で 入党しました。
ただ、他の党員と違ったのは、私が徹底して統一戦線志向だった ことです。
私は、組合が取り組む平和運動(総評・原水禁系)にも懸命に取り 組みました。有事法制反対のデモ、反核平和の火リレー。
組合の役員を務めました。夏の原水禁大会では、原水禁系の実行 委員会にも出席し、取り組みました。
イラク戦争反対運動では、旧社会党系と、共産党の橋渡しに、力を 尽くしてきました。
その成果の一つが、2003年3月2日の6000人が集った 人文字でした。戦争をとめるためには立場を超えたちからを、という 皆の思いが結集したのでした。
一時は、私に後を継がないかといってくれた共産党市議もいました。
一方で、共産党員でありながら、部落解放同盟幹部とも厚いパイプを 誇るまでになりました。

しかし、転機が訪れました。それは総選挙でした。共産党は、 全選挙区に候補を擁立。しかし、社民党や民主党左派のひとたちと パイプが太かった私には、自分の党の対応が、あまりにセクト主義的で、 彼らに対して申し訳ないと思うようになりました。
また、党内でも、全労連系(圧倒的多数ですが)の人たちとの軋轢が 強まってきたのもこのころです。
例えば、広島の教職員組合が強かったのに、共産党系が第二組合を つくって、分裂させ、お陰で、組織率が4割まで低下したのです。
こうしたことへの反省も無く、「自分たちだけが正しい」(もちろん、 連合の体質に問題はありますが)、と独善的な全労連系の党員 との軋轢が強まり、ほぼ唯一の連合系役員の党員だった私との 溝は抜きさしがたいものになりました。

総選挙では、私は、組合方針に従い、広島三区の社民前職を応援 しました。1000%とおりもしない共産党候補を応援しても仕方が無いからです。

党側には「俺は、役員だから金子さん(社民前職)を推す」と通告。党側は仕方が無いといいながらも、落胆していました。

結果は、社民も共産も惨敗。金子さんも次点で善戦したが及びません でした。しかし、「より当選可能性の高い護憲派」を推したことに 私は、確信を持っていました。一方で惨敗しても誰も辞任しない 共産党に不信を覚えていました。

そして、参院選挙が近付いてきました。私は、護憲派が結集できる 候補者として友人の大学教授の擁立に関与しました。総選挙で 独善的に戦って惨敗した共産党は、今度こそ選挙協力してくれる、 と確信していました。
「今回協力しないようなら共産党はもうだめだ。そのときは離党だ」 と思い、離党届を準備し、印鑑まで押して後は日付を入れるだけに しておきました。
「部落解放同盟とは一緒にやれない」などという憲法とは関係ない 理由で、選挙協力は断られました。それを赤旗紙面で見た私は 「もうだめだ。」と思い、そのまま県委員会に直行。離党届を 手渡してきました。

離党のもう一つの理由は、共産党の比例区に女性重点候補が いなかったことです。「ダメだこりゃ」と思っていました。

参院選では比例区は社民党、選挙区は無所属で立候補した大学教授を 支持しました。結局、大学教授は次点に終わりましたが、共産党の 公認候補よりは得票は上に来たのです。

今は、私は、組合内主流派(社民系)になっています。共産党は 「正しいことは言うがいろいろなことへの反省も無い」ということ です。無論、共産党との共闘は今度は、社民系の運動の中で推進 していく積りです。