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一般投稿欄

「しんぶん赤旗」第3面掲載中の憲法に関する連載記事について

2004/11/10 樹々の緑 50代 会社員

 この11月3日から、「しんぶん赤旗」第3面に、「まるごと!?考えよう日本 国憲法 第1部 そもそもから」という記事が連載されている。
 現在、ブッシュ再選の下においてアメリカの「先制攻撃戦略」「軍事的再編」を充 たす上で、自公・民主各党によって、わが国を「戦争をする国」に変質させる重要な 一環として改憲策動が進められようとしているとき、日本国憲法のそもそもの規範的 意味を解明し、その存在価値を明らかにしながら、改憲派が言うように本当に「時代 遅れ」だったり、「情勢に適合しな」かったりするのかを検証すること、そして、そ の作業を通じて、「九条の会」を始めとする改憲阻止の国民運動に強固な理論武装を 施すことは、時宜に適った(それ以上に、切実に必要な)行動だと、私も考えている。
 ちなみに、この観点からは、10月20日付で刊行された岩波新書『改憲は必要か』 (憲法再生フォーラム編)も重要な文献だと思う。

 ところで、そのような理論武装が本当に力を発揮するためには、最低限、憲法の規 範解釈について、代表的な専門的見解をも参照しつつ、規範の文言から乖離した「超 創造的」解釈を行わないことが要求されるだろう。そうでなければ、結局「自分の主 張を正当化するために、憲法を都合よく解釈して根拠づけに使っている」という非難 に耐えられず、却って「理論武装」を解除する結果となってしまうからである。
 しかし、9日現在でまだ7回を数えるだけだというのに、目を疑うような記述があ る。これでは、「公明党の『9条加憲論』はインチキだ!」と非難する側が、「何だ、 『目くそ鼻くそを嗤う』の類ではないか!」と、冷笑されてしまうのがおちである。

 何かというと、連載第3回(11月5日付、以下「記事」と略す)における「憲法前 文」の理解である。あくまで「前文」の理解であることに注意してほしい。この「記 事」のうち、「国家像示す」と「普遍の原理」の項は、言葉はやや厳しいがほとんど 嘘だらけである。まともな憲法の体系書を繙いた形跡さえ見受けられない。あれこれ の前文の文言と、国連憲章の文言とを組み合わせて、論理的には一貫しているように 見えるが、「自分の主張を正当化するために、憲法を都合よく解釈して根拠づけに使っ ている」という非難に耐えられるものでは、到底ない。

 あらかじめ、念のため述べておくが、「記事」で述べられていることの実質には、 私もほぼ異論がない。この投稿原稿は、上記「記事」に接して5日後に書いているが、 「内容の実質に異論がないのに、解説が『嘘だ』と指摘するのは、現時点で大事な運 動に水を差すだけの『難癖付け』ではないか」と迷っていたのである。しかし、国の 基本法である憲法の理解について、いい加減な解釈を流布することは、やはり、長い 目で見て運動の根本的利益に反すると考え、投稿することにした。
 なお、「共産党中央に意見すべきではないか」という意見もあると思う。しかし、 残念ながら私は、すでに何度も無視された経験がある。

 憲法前文は、全体で4つの段落から成っている。第1段は4つの文、第2段は3つ の文からなり、第3段と第4段は各1文で、全体で9つの文が含まれる。ぜひ原文に 当って読んでいただき、上記「記事」の解説と比較していただきたい。

 さて、「記事」の本文冒頭の第2文では、日本国憲法前文には「憲法全体をつらぬ く基本精神はなにかがくわしくのべられて」いると、それ自体は正当に指摘している。 「前文」それ自体に関する解説記事は、この前後の第2回や第4回の連載にはないか ら、この「記事」が、日本国憲法前文に関する解説の全部と考えてよいだろう。

 そして日本国「憲法全体をつらぬく基本精神はなにか」が、これに続く「記事」の 「国家像示す」「普遍の原理」の2項で解説されている、と普通の読者は考えるに違 いない。
 ではそこに何と書いてあるか。

 まず「国家像示す」では、冒頭で「この『前文』から、三つの『基本精神』を読み 取りたいものです」と述べ、その内容として、
(1) 「一つは、憲法の原点はなにかです。(中略)侵略戦争への反省が憲法の原点で あり、根本的な柱なのです。ここでは、その教訓にたって憲法を制定したことを確認 しています」
(2) 「二つめは、国際的な『平和のルール』にのっとって、紛争の平和的解決に徹す ることです」
(3) 「三つめは、世界のすべての国や民族の主権を尊重し、平和共存をめざすという 考えです」
という3点を挙げている。これが、日本国憲法前文が示す「憲法全体をつらぬく『三 つの基本精神』」だというのである。そして、ご丁寧に、この各「基本精神」を示し た日本国憲法前文の文言が、引用されている。

 中学校の社会科ないし公民的分野で、「日本国憲法の基本原理」を学習したことを 憶えておられるだろうか。国民主権・基本的人権の尊重・戦争放棄(ないし平和主義) がそれであったはずである。そしてこのことは、例えば、次の憲法の代表的体系書で も明示されている。

 日本国憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三つを基本原理とする。 これらの原理がとりわけ明確に宣言されているのが憲法前文である。(芦部信喜著・ 高橋和之補訂『憲法 第三版』2002年9月岩波書店刊 35頁)

 憲法前文が「明確に宣言」している「三つの基本原理」が、いつの間にか、侵略戦 争への反省が原点・紛争の平和的解決に徹する・国家や民族主権尊重と平和共存とい う、非常に狭い「三つの基本精神」にすり替えられてしまっている。これを前文から 「読み取りたい」と、読者に要求しているのである。

 「日本国憲法全体の基本原理については、連載第2回で、日本共産党の持論である 『憲法5原則』を提示したところで論じたから、問題はない」と言うことはできない。 問題は、あくまで「日本国憲法前文が何と言っているか」にあるからである。

 このようなご都合主義的な「三つの基本精神」を引証するために、「記事」では例 えば、「侵略戦争への反省が原点」という、第1の基本精神に対応する日本国憲法前 文の文言は、「日本国民は…政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないや うにすることを決意し…この憲法を確定する」という、前文第1段第1文であるとし ている。
 この部分は、自説に都合がよい部分だけを勝手に切り取ったゴマカシとしか言いよ うがない。

 もちろん、「記事」がいうように侵略戦争への反省が、日本国憲法を現にある形で 制定した重要な「動機」であることは間違いない。それを「基本精神」と呼ぶことも、 不当ではあるまい。
 しかし、「記事」の引用が「…」で省略した部分にこそ、それが引用した「政府の 行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」たというこ とを読み解く鍵がある。

 すなわち、前文第1文は、日本国憲法制定の主体とその目的とを明らかにした文な のである。

 制定主体については、第1文が「日本国民は」を主語として始まっていることから も明らかであるが、それに止まらず、「ここに主権が国民に存することを宣言し」と していることから、制定形式が(天皇を統治権の総攬者であるとした)明治憲法の改 正の形を取っているものの、両憲法間に連続性はなく、国民主権原理に基づいて国民 自身が新たに制定したものであること(民定憲法性)を明らかにしている。

 制定の目的は、「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」し、「われ らとわれらの子孫のために」「諸国民との協和による成果」と「わが国全土にわたつ て自由のもたらす恵沢」を確保し、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ること のないやうにする」ことである。国民主権による民主主義、基本的人権の尊重、平和 主義のすべてが、ここに簡潔に示されていることが解る。

 「記事」が「1つめの基本精神」の引証とする「政府の行為によつて再び戦争の惨 禍が起ることのないやうにする」という箇所も、侵略戦争への反省に基づくものでは あるけれども、直接には、「われらとわれらの子孫のために」「政府の行為によつて 再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という、現在及び将来に向っての戦争 放棄=平和主義の宣言なのであって、決して「侵略戦争への反省が日本国憲法制定の 原点である」という宣言ではない。

 また「記事」は、「国際的な『平和のルール』にのっとって、紛争の平和的解決に 徹する」という「2つめの基本精神」の引証として、「日本国民は、恒久の平和を念 願し…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよ うと決意した」という、前文第2段第1文を引用している。

 日本国憲法が採用した平和主義は、侵略戦争を含めた一切の(但しこの点には異論 がある)戦争・武力の行使・武力による威嚇の放棄、戦力の不保持、国の交戦権の否 認という諸点において、他の国に見ない徹底した戦争否定の立場を採っているところ に特徴があるとされる(芦部・高橋前掲書54頁)。
 言い換えると、日本国憲法の平和主義は、制定時にすでに存在しているところの 「国際的な『平和のルール』」に則るといったような、現状維持的な「国際法の順守」 に尽きるものではなく、より突出したものなのである。
 しかも、「記事」が引用する前文の部分は、直接には「紛争の平和的解決」を志向 するものではなく、日本の安全保障について、「国際的に中立の立場からの平和外交、 および国際連合による安全保障を考えている」と解するのが一般である(芦部・高橋 前掲書56頁、戸波江二『憲法 新版』89頁など)。

 素朴に引用部分を読んでも、「(軍隊の存在や武力行使によるのではなく)諸国民 の公正と信義に信頼して」「安全と生存を保持しようと決意した」というのは、(そ の是非や現実性はさておき)非武装中立の安全保障政策を憲法政策として採用する、 ということであろう。それが結果的に「国際的な『平和のルール』にのっとって、紛 争の平和的解決に徹する」ということになるとしても、前文の趣旨が直接には安全保 障政策に関する宣言だということを差し措いて、「基本精神」だなどと指摘すべきこ とではない。

 「記事」がいう日本国憲法前文における「三つめの基本精神」は、「世界のすべて の国や民族の主権を尊重し、平和共存をめざすという考え」である。その引証として 「記事」は、前文第3段の文を挙げている。

 日本国憲法前文第3段は、通常「国家の独善性の否定を『政治道徳の普遍的法則』 として確認した」ものだと解するのが一般であるが、「平和共存」という限度では、 同じようなものだと言えるかも知れない。そして、「平和共存」には当然、「国家の 主権の相互維持」も含まれるだろうから、「世界のすべての国の主権の尊重」も、前 文第3段がいおうとするところだとしても、あながち間違いとは言えまい。
 しかし、「記事」がいう「世界のすべての民族の『主権』の尊重」とは、「国の主 権」以外の何を指すのか、定かでない。仮に、日本国憲法前文第3段が、国家主権と は別のレベルにある民族自決権尊重を宣言したものだと解するのであれば、それはも はや解釈の域をはるかに超えている。

 次に、「記事」の「普遍の原理」の項では、自民党が憲法前文の改変を企てている ことは、「憲法全体の『基本精神』を変えることを宣言したのと同じです」といって いる。ここにいう「基本精神」が、その前の項で「記事」が示したものであるならば、 それはそもそも、前文が定めた事柄でないのは、いま見たとおりである。
 しかも「記事」は、「憲法の基本精神、原理は、『人類普遍の原理』です」といっ て、自民党等の企ては排除されなければならないとしている。ここにも、曖昧なゴマ カシがある。

 すなわち、「記事」はまず、前項で提示した「基本精神」が、日本国憲法前文第1 段第3文にいう「人類普遍の原理」にあたることを示すために、「憲法の基本精神、 原理は」というように、コッソリと「言い換え」をしている。いつの間にか、「基本 精神」が「基本原理」になっているのである。そして、その上で「人類普遍の『原理』 」という前文の文言を引いてきて、「だから改変は許されえない」と結論づけている のである。

 たしかに、憲法前文第1段第3・4文には、

これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われら は、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 と定められている。
 それでは、前文の上記箇所冒頭に示される「これ」とは何か。それは、前文第1段 第2文に明示されている。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、 その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは 人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。

 と続くのである。国民主権原理と代表民主制、国政の根本目的が国民の福利享受に あることが、「人類普遍の原理」として宣言され、続けて、この原理に反する一切の 「憲法」「法令」「詔勅」が排除されているのである。「これ」には、第1文がいう 憲法制定の目的(基本的人権の尊重、国際協調、平和主義)も含まれるとする解釈も あるが、国民が享受すべき「福利」にこれらが含まれることは、制定目的からして当 然であるから、そのような解釈も十分成り立っている。
 しかし、何れにせよ、「基本精神」を「基本原理」と言い換え、それを「人類普遍 の原理」として守ろうとしたものでは、決してない。

 以上見たように、「しんぶん赤旗」の上記「記事」が尤もらしく解説する「日本国 憲法前文の『3つの基本精神』」なるものは、その出自自体が怪しく、改憲策動を阻 止するイデオロギー的武器には到底なりえない代物である。
 もちろん、憲法の解釈権は、司法機関を除けば、解釈学者といえども一国民や政党 と同等の立場で主張しうるに過ぎないから、「しんぶん赤旗」が独自の憲法解釈を主 張することは、まったく自由である。
 しかし、それをあたかも一般に認められている解釈であるかのようにいうことは、 決して自由になしうることではない。まして、政治闘争の理論武装に資するための記 事となれば、その内容はより正確でなければならないし、解釈学の成果を十分に咀嚼 したものである必要がある。
 私のような、ちょっと法律を学習した者でもすぐに指摘できるような、いい加減な 論理で、極めて重要な闘争の武器を台無しにしてほしくはない。
 それまでのあらゆる学問的成果を批判的に検討して作りかえ、自己の学説を完成し たとされる、マルクスの血のにじむような努力に対する、それが礼儀ではないだろう か。

 日本共産党の法分野に関する最近の理論には、まだいくつかの不可解な点があるが、 私の条件と力量では、とても指摘・解明できない。山本進弁護士等によるより精緻な 解明を切望している。