私は学校でも、またあらゆる組織、団体、グループの中でもはずれ者だったので、おかしな発言をして反発を食らったり無視されるのはなれています。そんな外れ者のアホな発言に「エンジニア」さん、結城さん、「ある工事主任」さんが眼を止めてコメントを下さったので、喜んで応答しましたが、1回きりで終わってしまいました。
ああ言えばこう言うで、次々と関係の無い話を持ち出すいかれたオッサンには付き合ってられない、と思われたかもしれませんが、無理もありません。しかし私としては、今自分たちが生きている社会がどうなっているのか、それをどうとらえ、どう立ち向かうべきか、という一貫した問題意識を持って発言してきたつもりです。それが私の表現の仕方が悪く、また僻みっぽい性格を反映した「ねたみ」を感じさせるような感情的な発言のために、きちんと受け止められなかったとしたら、私の責任です。
社会の全体像を捉えるというのは、非常に困難な課題です。卑近な例を出せば、大分前に、新聞の広告で週刊誌の見出しを見ると、日本中の主婦の大多数が売春をしているような錯覚を覚えたことがあります。そんな馬鹿なことはあり得ないのですが、扇情的なメディアはそう錯覚させるような書き方をしました。「援助交際」については、そんな報道が更にそんな風潮を促進したということも、否定できないでしょう。
要するに、日常的にどんなメディアに接しているかによって、社会のイメージが全く異なってしまうのではないか、と思うのです。そのようなバイアスに影響されずに、社会を的確に捉えることが、社会的・政治的な発言や活動の出発点ではないでしょうか。
学生時代、私達は「ファシズム」や「反動勢力」という言葉を頻繁に使いました。ところが、それが目の前の現実となっている現在、それらの言葉が余り聞かれません。どうなっているのでしょうか? 当時、ファシズムを繰り返し口にしながら、それの具体的なイメージはあやふやでした。せいぜい、軍国主義日本の言論統制や皇国史観に支配された教育、またナチスドイツの大衆動員のようなイメージしかありませんでした。
ジョージオーウェルが「1984」で描いた、究極の全体主義国家の恐るべき管理社会のイメージを我々は持っていましたが、共産党はそれを反共宣伝として排除しました。
ファシズムという言葉が余り聞かれない今日、私達はオーウェルバージョンのファシズムが展開するのを目にしています。町じゅうに、また高速道路の要所要所に設置された監視カメラに監視され、アパートにビラ配りに入れば警察に逮捕され、権力者が戦争を始めた時に国民をどのように統制するかという法律が「国民保護法」の名で制定されるというように、権力者は「1984」をテキストにしているのじゃないか、と思うほどです。
青島幸男が東京都知事になったとき、私は「辣腕の官僚の次が芸能人。これで失敗したら、あとはファシズムしかない」と思って、青島宛の手紙を書き、また東京に住む友人とそれについて話し合いたいと思いました。ところが彼は私とは正反対のエリートサラリーマンとしての楽しみを語るばかりで、学生時代のような政治がらみの話は避けました。「どいつもこいつも、どうなってんだ?」とやきもきするうちに、まさにファシスト石原慎太郎が都知事になってしまいました。
石原流ファシズムへの道は、様々な不安を抱えて生きる多くの市民に受け入れられているだけでなく、全国の自治体にも広がりつつあります。民主党の中にも石原の盟友がいます。
一方で、新自由主義による弱者切り捨て、「自己責任」のおしつけは、切り捨てられる層の中に「どうせ自分は・・」というあきらめを生み、ファシズムに反対する気力どころか、自分の生活権を脅かすものへの怒りすら失わせるような腐食作用を発揮しています(400万人を超えるフリーター、不当な首切りと戦えない元「企業戦士」、3万人を超える自殺者)。
私がこの社会に対して抱くイメージは、単純化すると以上のようなものです(もっときちんと述べると、例によってわき道にそれてわけがわからなくなるのでやめておきます)。企業内のヒエラルキーに対するねたみに似た悪口も、下水道菅の中での事故の話も、企業の不祥事の問題も、そのような弱者切捨てと、不正義を不正義として議論して正す力の衰退など、このファシズムと新自由主義の害悪の1面として取り上げたつもりなのですが、書き方が悪くて伝わらなかったと思います。
いずれにせよ、私が一番疑問に思っているのは、この重大な変化を、皆さんはどう受け止めているのか、ということです。教育現場はどうにもならないところまで来ています。若者達から希望を奪う指導者達の仕事は大成功しています(国際比較の学力テストなんぞ、マイナーな問題で、生きる力の衰退が問題になる事態)。この大変な事態を前に、人のケチ付けをして楽しむような、愚劣なかく乱分子を相手にしているヒマなどないと思うのです。
会社の中に立派なシステムがあるからいい、ではなく、もっと基本的な、自分の考えを日常的にオープンに表明し、話し合うことができているのか、話し合いで問題を解決する土壌があるのか、ということ。教師の世界ではそれがすでに破壊され、彼らは日常的に踏み絵を突きつけられ、自由に物が言えない環境のかなで、異常な高率で精神疾患が発生しています。会社員のうつ病も、個人の問題と考えていたらとんでもない間違いだと思います。ファシズムと新自由主義は必然的に、私達を精神的に病的な状態にすると思います。