人文学徒さん、はじめまして。
あなたの12/15付党員欄への投稿「皆さん、改めて、ご意見をお聞かせください」を拝見し、その中で私のとおりすがりNさんへの投稿にも触れられていたことを知り、何とかお答えらしきものをと考えあぐねていましたが、この間、年末の個人的事情やとおりすがりNさんへの返答に追われていたために、書くのが延び延びになっておりました。
ようやく「試論」としてお返事を書ける余裕が出てきたものの、書き始めると一度では終らない感じなので、「その1」として、前半部分のみを先に送ります。とりあえず、ここに1人、人文学徒さんの呼びかけに答えようとしている者がいることは、全部完結させる前に伝えようと思いました。
この試論(全体)では、大まかに、日本共産党の現状について、人文学徒さんの
(1) その惨状の原因(9/16付)、及び是正の展望の有無(12/15付における「党(中央)は基本的に信じられるのか」の問題)と、
(2)「今後党はどうあるべきか」というビジョンの部分(10/25付)、
に分けて、私の考えを述べてみる予定です。
まず始めに、総評的に感想を述べますと、人文学徒さんのご意見における(1)の部分と(2)の部分との、内的必然的連関が、私にはどうしても分りませんでした。したがって、(1)の部分には基本的に賛成し、私なりの追加意見を述べることができますが、(2)の部分には、かなりな異論が出てくるのではないかと予想しています(現在まだ書いていない)。
人文学徒さんが特に9/16付で指摘されている、党が「惨状にある」という現状認識については、私もほぼ同意見ですので繰返しません。ただ、その中で党決定の「読了率」については、昔から本当に5割を超えていた時期があったのか、私には疑問があります。それよりも私が、9月の2中総で驚いたのは、不破議長の「党名変更」に関するイタリア共産党の例を引いての発言部分を、居並ぶ中央委員がそのまま受け入れていた(ように見える)ことでした。ここではこれ以上述べませんが…。
また、人文学徒さんが、この「党の惨状」の原因を、党内において全党的な民主的討議の場を保障せずに「異論」提起の機会を封じ込め、しかもそのような閉鎖状態を通じて形成される「全党の意思」が「科学的真理」だとする「民主集中制」=事実上の党幹部独裁制にあると指摘されている点にも、少なからぬ共感を覚えるものです。同時に、党の惨状の「到達点」が、このような党幹部独裁制によって党幹部自身の腐朽を生じるに至っているとされる評価にも、不破氏に対する「社会主義諸国が崩壊して以来のこの人物の言動は理解しかねる」という原仙作さんの評価(9/9付)とともに、わが意を得たり、という感想を懐きました。
もとより、とおりすがりNさんに対して何度か断っていましたように、私は、社会主義理論について(特にマルクスやエンゲルス、レーニン等のいわゆる古典文献の精読について)は、ほとんど初歩的な学習しかしていないので、人文学徒さんや原仙作さんその他編集部員諸氏等の、社会主義理論の豊富な基礎知識に裏付けられた立論に対して、同じレベルで「お答え」として何かを述べる力量は、私にはありません。
それは、私が学生党員として活動に本格的に入った時期(党歴約20年、離党後10年余で現在に至る)は、すでに11大会後の不破哲三氏の理論活動の全盛期であり、党学校や、不破氏・上田耕一郎氏の著作に含まれる第二次的資料を通じて、主としてこれらの古典文献(の記述)に接したという事情があるからです。11大会以後に体系化された「独習指定文献」初級第1・第2課程、中級第1・第2課程に属する党文献だけでも、私たちが読了するには大変な分量でした。もちろん、これら二次的文献に刺激を受け、オリジナル(といっても国民文庫等の翻訳書ですが)を読んだこともかなりありますが、すでに不破・上田氏ら日本共産党中央の解釈・解説というフィルターを経た後のことですから、おそらくみなさん方が、満足な党文献も揃っていない時期(失礼!)に、国民文庫やレーニン全集(やや遅れてマル・エン全集)をむさぼり読みつつ、そのあれこれの命題や歴史的分析(具体的情勢の具体的分析と、その方法論)に感銘を受けていた読み方とは、かなり理解の角度や深さが違っていたものと思います。
当然のことですが、これはとおりすがりNさんが強い反感を示している訓詁学的・文献引用力拝跪的な「社会主義理論」を、そのまま信奉する考えから申し上げているわけではありません。
このようなことを「お答え(試論)」の冒頭に述べるのは、実は、これらの事情が人文学徒さんの(1)の問題にかなり関連すると考えているからです。そこで、もう少し、私の話にお付き合い下さい。
いま述べた、11大会後の不破哲三氏の理論活動の全盛期に、党学校や、不破・上田氏らの著作に含まれる第二次的資料を通じて、主として古典文献に接したという事情は、私たち以後の数年の世代(そこには志位和夫委員長の世代も入る)においては、「遅くない時期に民主連合政府(23大会前の政府論において)が樹立される」という展望の下、その政府において、既存の膨大な官僚群に実質的に対抗できる政策能力を展開するという、極めて具体的な課題意識を持って、法律学その他の「ブルジョア学問」を(批判的に、という限定付きで)修得することに主要な問題関心が振り向けられていた、ということの反面でもあったと思います。
そこでは、私たちは、「独習指定文献」(その中級第1課程には、原仙作さんが言及した4・29論文もあります)や不破哲三『人民的議会主義』等に引用され解明されている形で、マルクス・エンゲルス・レーニンらの「古典文献」を学び、差し当りそれを「科学的社会主義の理論学習」だと考えていたわけです。ですから、私たちの世代にとっては、不破哲三氏の「理論的解明」自体に、原仙作さんがいわれるような「詐欺」があろうなどとは予想だにせず、不破氏の理論的力量に対する信頼には、それこそ「憧憬・信仰」に近いものがあったように思います。
ですから、例えば志位委員長の討論や演説における言葉の区切り方だとか、語の抑揚が、何となく不破議長のそれに似ているのは、不破氏に対する「憧憬・信仰」に浸っている限り、私たちの世代としてはごく自然なことなのです。
また他方で、いま述べた「民主連合政府を実務的に支える」という問題関心には、「すべての政党の構成員は知識人の機能をはたすとみなしたグラムシの知識人概念をまつまでもなく、すでにレーニンの概念での『労働者インテリゲンツィア』とは、先進的な労働者であるにとどまらず、労働者政党の構成員のこと」であると指摘した、『現代と思想』創刊号掲載の論文・島田豊「新しい知識人の形成」の影響も、相当強くありました。
即ち、島田論文に引用されているレーニンの「単一の経済計画について」(1921.2.21付)と題する短文の一節に、次のように示されている見地です。
その本質に立ちいって、問題をくわしく研究することによって、専門家の仕事を結合し、それを謙虚な態度で指導する能力を証明しなかったような共産主義者は、有害なことがしばしばある。わが国には、そういう共産主義者がたくさんいる。そして、私は、自分の仕事を誠実に研究している、仕事に通暁したブルジョア専門家がひとりでももらえるなら、そういう共産主義者を何ダースでもくれてやろう。(全集第32巻p148)
ところが、具合が悪いことにさまざまな「ブルジョア学問」をそれ自体としていくら学んでも、「人類が到達したあらゆる学問的成果を総括した」はずの科学的社会主義との内在的関係が自動的に分るわけではありません。
それは本当は、言葉が堅くて済みませんが、
(1) 命を削る思いで「ブルジョア学問」を学びつつ、
(2) それが取り扱っている現実の問題を、その歴史的(内在的あるいは外在的)諸条件を含めて具体的に分析し、
(3) これに対する一定の学問的知見を成り立たせている現実的・歴史的条件を解明して、その真理性(歴史的意義)と限界を矛盾の構造の中で把握・検証するという、
一連の地道な作業の中でしか、理解できない性質のものです。
(4) そして、この厳しく・つらい作業を支えるのは、故吉野源三郎さんが『同時代のこと』(岩波新書・青版861)の中でしきりに強調された、「捨てておけない、苦悩に満ちた疑問に対する答えを求める一人の人間として、マルクスの許へ行」く(同書p227のクルプスカヤの言葉)
という姿勢であると私は考えています。吉野さんは、同書の中で、
自ら人間の根底に達する思想的体験をもつものだけが、人間に訴えて人間を動かす言葉を吐くことができる。人間のモラルと深く結びついた、このような魂の問題を通過しないで、思想や理念が-書物で得ただけの思想や理念が-時代を動かすなどということは、ありえない
と言い切っています。実は、これはおそらく、さつきさんが9/10付「組織論・運動論」欄の私宛投稿で「『人道=人の道』を説く者は、少なくともそれに値する『人』でなければならないという拘りがある」とおっしゃっていたことと、どこかで関係していると思っています。
しかし、今でこそ、この程度は書けますが、当時はこの厳しい関係が、皆目理解できていませんでした。
ところで、この「民主連合政府を実務的に支えるためにブルジョア学問を学ぶ」という課題意識がどうなったかというと、現実には、例えば「特宣隊」などと称して学生があちこちに便利な機動的「戦力」として使われた結果、学内での勉学がお留守になり、「革命的空文句」に終ってしまったのでした。
この時期の学生党支部活動の活動スタイルの不合理性は、1978年8月2日付幹部会決議によって「合理的でない活動スタイルなどの原因から、多くの党員や民青同盟員の専門学科や党員、民青同盟員としての学習が決定的に妨げられている状態が放置されているという重大な危険」があると指摘されたほどでした。しかし、このような活動スタイルの客観的不合理性にも拘らず、私たちの中では、N・A・オストロフスキーの『鋼鉄はいかに鍛えられたか』などを読みながら、その不合理性を理性の力で解明し問題を解決するよりも、「不合理に耐え抜く」ことこそ革命家として正しいあり方だという錯覚が、蔓延していました。いま思うと、実に未熟という他はありません。
当時は、学生という身分でさえ、「党から与えられた任務だ」という倒錯した認識に囚われていたので、選挙等で「都合のよい戦力」としてあちこちに派遣されることについても、勉学が妨げられる痛みと矛盾を感じ、直上機関に対しては随時意見を上げつつも、使命感を持って取り組んでいました。しかし同時に、時には最末端の「指導機関」として、個々の党員学生の勉学を阻害する片棒を担いだことに対しては、いまでも痛切な後悔と責任とを、私は感じ続けております。
ですから、ずっと以前にこのサイトでも、いわゆる新日和見主義批判キャンペーンの犠牲となられた方々が、当時の党中央の理不尽な仕打ちに抗議しそれを告発する趣旨の投稿をしていたように記憶していますが、彼らの世代の「指導」に基づいて、ひたすら勉学を「弾圧」され続けた私たちの世代の共通感覚としては、それを見ても「未だにあの人たちは『主観の世界』の中に生きているのか、いい気なものだなー」という冷淡な感想しか、湧いて来ないのが実情だと思っています。
いま「主観の世界の中に生きている」と申しましたが、どう考えても、この時期の学生党活動のスタイルは、前述の「問題関心」を含めて彼我の実質的・主体的力量の判断を誤り、味方の貧困な能力を主観主義的に過大評価して、革命の根本的準備をないがしろにしていたとしか思えないからです。そして蛇足になりますが、その主観主義的傾向は、原仙作さんや人文学徒さんが指摘されている1998年参議院選挙での勝利の評価にも、底流として繋がっていると感じています。
このような尋常でない学生党支部活動スタイルが公然と維持されていたのは、1970年代の7~8年間のことでしょう(以後については不知)。しかし、私の周りでも、少なくない党員学生が、健康を害し、厳しい活動に堪えられない自分に劣等感を感じたり、精神の平衡を崩したりして傷つきながら、学業に芳しい成果も上げられず、失意の裡に社会に出て行きました。特に、私には分りませんが、理系の学友は一切ごまかしが効かないだけに、相当につらい思いをしただろうと推測しています。そして少なくない者が、卒業と同時に、あるいは卒業後間もない時期に、党を離れました。
また、こうした状態を抱えつつ社会に出て行った若い党員が、ブルジョア的専門家の「実務的実力」に圧倒されて、コロッと「寝返って」しまう例も、いくつか見てきました。そこまで行かなくても、この時期の党中央の学生指導に恨みがましい思いを懐き続けている「元活動家」は、決して少なくないと思っております。
当時、ある学生全国団体の責任者を務めていた党員学生は、このような活動スタイルの合理性に疑問を呈する私に対して、「これは、革命運動の発展途上の一定段階におけるやむをえない犠牲だ」といっておりました。後で別のところで、この人物が「自分は、全国団体の責任者をしているから、自分のスケジュールをいかなる党機関からも左右されることなく管理できるので、勉強できてラッキーだ」と語っていたと知り、愕然としたのを、いまでも鮮明に覚えています。
こうして、「生き残った」のは、このような厳しい環境に耐える「体力と知力」を持ってこの矛盾に充ちた活動をくぐり抜けたか、そのような酷使を立場上回避できる部署にいたり、何らかの方法で、事実上酷使を免れる「技能」を発揮したりした人たちだと言えるでしょう。より下世話な言い方をすると、活動が負担にならないほど頭がよい(要領がよい?)人間と、重要サークル・学生団体等のシェルター内にいた人間と、ちゃらんぽらんだとかズルい人間とが、何とか生き延びることができ、真面目で鈍くさい普通の活動家の多くは(決して全部ではありません、念のため)潰れてしまった、ということです。
私はと言えば、卒業前後に健康を害したために、いつの間にか厳しい事態が「通り過ぎていった」という幸運に恵まれただけでした。
そして、生き残ったからといって、これらの者が真の科学的社会主義者としての自己形成に成功し、前述の(1)~(4)の観点から鍛えられていると言えるかどうかは、まったく保証の限りではないのです。
個人的な印象で申し訳ありませんが、志位委員長が演説でしばしば、「国民のみなさんの苦しみ」という言葉を発しているとき、何か猫なで声のように感じ、「御為ごかしを言っている」ように感じるのは、前述の(4)の観点が希薄なのではないか、と感じております。
私がこのことの深刻さに本当に気づいたのは、卒業してそれなりの年月が経た後、現実問題として自分が学習したはずの「ブルジョア学問」の真価が問われるようになった時です。それからは、浪費した時間と内容とを取り戻すべく、まだ若かったこともあって、随分努めて学びました。いま、曲りなりにも国際法や憲法等の議論を、多分専門家から見ても「基本線から大きく外れてはいない」と評価されうるだろうと思いつつすることができているのは、そのお陰です。
とおりすがりNさんへの投稿で「ソ連・東欧の崩壊」に際して党中央と論争した旨述べましたが、それは、党員としての私が、自分なりに「ブルジョア学問」の成果をマルクス主義的に摂取しながら具体的に展開した、貴重な経験でした。ですからその際の私自身の意識は、「人類の科学的成果を総括してマルクスとエンゲルスがうちたて、レーニンが発展させ、その後の国際共産主義運動の前進によってゆたかにされた科学的社会主義」(旧規約前文の規定)を、当時まさに直面している問題分析と解決に当って発展させようとするものだったと記憶しています。
ところで、この不合理な学生党支部活動スタイルを改める契機となった1978年8月の幹部会決議は、その後同年9月に開かれた党14大会5中総で承認されたように記憶していますが、記憶によれば、その際不破書記局長(当時)は、「これ(=不合理な活動スタイル)は、革命運動がいままで経験しなかった、新しい問題だ」と評価し、「未経験の新しい問題であったがゆえに、指導機関が不適切な指導を継続したことに重大な責任はない」という趣旨の総括を行ったのです。
さきに、「未だにこの時期の党中央の学生指導に恨みがましい気持ちを懐き続けている者もいる」と述べたのは、こうした総括によって「一件落着」とされたことにも原因があると思っています。
こうして、当時「新日和見主義」世代として生き残っていた、私たちよりも若干上の世代の指導者たちが、青年学生指導から排除されたものの、私たちの世代以降の「生き残り」組の中には、指導的幹部として保全される者が出ることとなりました。
再度、なぜこのようなことを人文学徒さんへの「お答え(試論)」の始めに延々と述べるのかと申しますと、党員としての自己形成の出発点となった時期に、このような背景事情からこのような経験を経て生き残り、指導的幹部として保全された世代が、志位委員長を始めとして、現在の党全体を実質的に「指導」している常任幹部会委員・書記局員の中に、一定数の無視できない勢力として存在していると考えるからです。人文学徒さんが9/16付投稿でおっしゃる「党の惨状」について、この人たちが今後、実質的な党中央の中心世代として機能していく中でどうなるのか、という予測と無関係に、提起されている問題に回答できないと考えるからです。
これは単なる私の個人的経験の絶対化ではないか、と何度も自問してみました。
しかし、現実に志位和夫委員長が幹部会委員長として君臨し、若林義春東京都委員長が常任幹部会委員となっている以上、避けて通ることはできないと考えました。他にも、大幡基夫氏・和田一男氏・山口富男氏(この人だけは単なる幹部会委員)らが、この世代に属していると思います。たまたま私が、これらの人物と同世代であったために、本投稿のような内容を書く役回りを演じるはめになっただけで、私がやらなくても、早晩誰かがやることになると思いました。実はもうすでにどなたかがやっていたのに、私が知らなかっただけかも知れませんが…。*
このように書いてくれば、人文学徒さんの第(1)の問題に対する私の「追加意見」も、ほぼ推測がつくのではないでしょうか。
今回、人文学徒さんの呼びかけにお答えする上で、改めて原仙作さんの労作を丁寧に読みました。
不破哲三『議会の多数を得ての革命』を素材とした分析の結論部分で、原さんが結局において、「不破氏は弁証法的唯物論も史的唯物論も会得していない、だから、小才の効いた文献読みとしての論理的読物は書けるかも知れないが、現実の情勢を分析して的確な方針を立てることなど、到底期待できない」と喝破されたのには驚きました。
これになぞらえて言うならば、このような不破氏の理論的力量に対する「憧憬・信仰」から脱し、苦しみながら自分の頭で物事を考える習慣を身につけていない限り(そして、私にはその習慣は身についていないように見えるのですが)、その後継世代である志位氏以下の指導部が、不破氏と同じ轍を踏む確率は高いし、そのような人物たちが、「提灯書評」をこぞって書き連ねるのは、自然の成り行きである、ということになるでしょう。
「一人ぐらいは『王様は裸だ』と声を上げる『子ども』はいるのだろうか?」 -多分、現状では出てこないだろうと思います。
* 余談になりますが、私は、もっと年を取ったら、渥美清が映画で演じた有馬頼義『遺書配達人』の主人公のように、あの時代の学生党活動をともにした多くの仲間たちを訪ねながら、無着成恭『やまびこ学校』に対する佐野眞一『遠い「山びこ」』のようなものを書けたらと、願っています。
ちなみに、これよりも後の世代として私が着目しているのは、小池晃常任幹部会委員・政策委員長・参院議員の世代です。人文学徒さんが生の当事者の声を聞きたいとおっしゃっていた「東大全学支部がその複数の代議員に大会で宮本顕治氏解任決議案をあげさせることを決めたとき、必死にもみけしたのは有名な話」という件について、私はよく憶えていませんが、小池氏は、まさにその当事者世代に近いところにいたのではないかと思うからです(ただし、彼は東北大学医学部出身です)。
また記憶が不確かですが、この世代は多分、東京大学で初めて勝共連合系勢力が教養学部自治会の執行部に就いた時期に当っており、仄聞するところによると、彼らは「共産党や民青は、馬鹿と貧乏人がやる運動だ」と、差別意識丸出しで豪語していたらしいからです。
(以上続く)