20世紀は、管理社会であった。大量生産で各企業が、量で競った。競争会社をつぶして、生き残ることを考えた。
21世紀は、共同社会になるのではないだろうか。もう、量の生産は限界にきている。質で勝負するより仕方ない。個別対応で高付加価値をつけた企業が生き残るのだろう。
個別対応企業にするには、共同社会的企業にするより仕方ない。
これから生き残って行く企業は、共同社会的企業だろう。
製品は、極端に2極分化するだろう。日経新聞が募集しているパック旅行には、2,3泊で20万以上などというのばかりがある。私などは、1桁間違えて申し込んでしまいそうだ。
質的生産には、2極分化はさけられないのだろうか。
と、すると、私は当分、大量生産の超安物の中に身をおくよりしかたない。必要な情報は、人についているという。高級社会に入れば必要な情報は得られるだろうが、大量生産型社会に身をおいていればそれなりの情報しか得られないだろう。
政党はどうだろうか。管理型政党はもう生きられないだろう。
共同型政党にするより生き残る道はない。せめて政党だけは、高級政党に身をおきたいものである。したがって、日本共産党を管理型から、共同型政党にかえたいと願っている。それには、一人一人が弁証法を身につけて、変化する社会を変化するままに認めるようにならなければいけないと思う。自分が主体ではなく、社会が主体である。
自分がこうしたいから、社会をこう変えようというのではなく。社会の段階が今こうだから自分はこう生きようということでなければいけないと思う。絶えず、自分が社会発展という階段の第何段目に身をおいているかを確認し、明日は、何段目に行こうという希望を持って生きてゆきたい。
一番大事なことは、社会の発展段階の階段が目に見えることだと思う。社会主義の青写真は書けないかもしれないが、階段は思い描けるのではないかと思う。すくなくとも過去にはい登って来た階段は、はっきり見えるはずである。