私も、このサイトの登場人物リストを作っているわけでもなく、最近年のせいか健忘症でもあるので、以前の記憶が定かでありませんが、とおりすがりNさんが本当に「とおりすがり」ではなくなりそうで、嬉しいです。
共産党の政治的な優位性とか、そうしたものは、やはり感じられなくなりつつあるこのごろです。
うーん。私の12/1付投稿の冒頭第3段目の趣旨に関してですよね。あんまり、「共産党の政治的な優位性」というようなことを言いたかったのではないのですよ。
私は「しんぶん赤旗」日刊紙を参照しているのですが、もっと素朴に、新潟中越大震災で翌日に国会議員が現地入りしたとか、何度も現地に入って要求の取り纏めをしたとか、ボランティアを全国から組織したとか、そういったことを政党として行っているのは、共産党くらいなものではないか、それで、手前味噌ですが(おや、私は党員だったかな?)、「赤旗」にも、最初のうちは控え目なワッペンを付けていただけだけれど、被災者から、「くれぐれも『共産党からです』と言って救援物資を配って回るように」と言われるようになった(12月5日付1面「潮流」)というエピソードが象徴しているように、(いま「護民官キャンペーン」中ですけれど)共産党は、国会に議席を持つ政党の中では日本人民の利益に一番合致した活動をしているのではないかと思っているだけです。
また、その「赤旗」について言えば、私は、社長と一緒に共倒れの危険があるような零細企業に勤めているので、いわゆる「労働者階級」を実感できる大企業の職場の現場で、いま何が起きているか、それを労働者の視点から豊富に伝えてくれるのは、「赤旗」ぐらいなもんじゃないか、それは結構ためになりますよ、と言いたかったのです。単価を切り下げてくるからと言って、その企業の労働者まで目の敵にはできませんからね(嫌な奴もいますが…)。
ま、同じ年代だったのでちょっと甘えてしまいました。
50年以上にも及ぶ実験は終了し、今その実験の総括が求められているように思うのです。私が知りたいのは、共産主義が良いものだと考えていた皆様が、このような実験をどのように総括しているのか、そこを聞きたいのです。
「実験」というのは、あくまで「本番」じゃないという感じがします。むしろ私は、「本気で本番をしていたのに、コケちゃった」と思っています。そして、「コケた」のは、Nさんがいわれるような「共産主義国家の建設」そのものではなかったと思っているわけです。
このサイトでも、「レーニン」の功罪・評価についてはいろんな意見があるように思い、私は勉強不足で、はっきりと結論を出せないでいるのですが(だから、とりあえず「マルクス主義」とだけ言ってます)、どちらかというと、Nさんがいう「実験」では、みんなレーニン型の国家を作ろうとしていたわけですよね。
でも、私が思うに、レーニンは、とにかく目の前の課題を適切に処理するのにエネルギーの大半を使ってしまって、経験の長期的な「総括と展望」を出す前に死んでしまった、と思うのです。だから、あれこれの時期を通じて「一貫性がない」だとか、「見地がブレている」だとか非難するのは酷ではないか、と思っています。(原仙作さんや人文学徒さん、不勉強な弟子でごめんなさい!)
で、50年の実験の「総括」ですが、まず、古典的な主権国家の分立を前提として、「一国社会主義」の可能性を肯定する世界像の下で考えれば、社会主義(生産手段を社会が「直接に握る」ことを特徴とする)・共産主義を自覚的に目指す勢力が国家権力を握った場合でも、その社会における民主主義と人権(とりわけ政治的人権)の保障が不充分であれば、その目標は達成できないことを、この50年の壮大な「実験」は示したと思っています。
より突っ込むと、生産手段を社会が「直接に握っている」と言えるためには、民主主義と個人の人権保障が不可欠であり、これは「握る」ことの内容であるとまで思っています。土台である生産関係と上部構造である政治制度とは、互いに相携えていると考えるわけです。
したがって、旧「社会主義体制」が崩壊したからといって、「社会主義」そのものが幻想だったと総括するわけではありません。まだ本格的には、誰も始めていないだけです。あらぬ方向へ迷走して「コケ」ちゃったから、「実験終了」のように見えるだけです。
ところで、日本共産党は、人権の中でもいわゆる「社会権」保障を先進的とみなし、古典的なブルジョア的自由権を軽視する傾向にありますが、社会権(生存権や労働基本権・教育を受ける権利等)は、共産党でさえ「立法その他の制度によって初めて具体化される」と考えているはずです。社会保障給付内容を改善するためにいちいち憲法改正をしていたのでは、間尺に合いませんからね。
とすると、これを言い換えると、「先進的な社会権という人権は、日常の政治過程(法治主義の下では立法とその執行)を通じてこそ具体的に実現できる」ということになります。憲法学者も、一般にこういった見解です。
この政治過程に、本当に人民の利益を反映させるためには、政治情報の公開(知る権利の充実)と「政府に文句を言う権利」(=表現の自由・政治活動の自由)という、古典的なブルジョア的自由権の実質的保障こそが決定的な意義を持つでしょう。
つまり、日本共産党が旧「社会主義諸国」について常々言っていた、「社会保障制度の充実などの体制的優位性」というのも、本当は、民主主義と人権の実質的保障の進展度で、測るべきものだったのではないかと思っています。
いまはやりの「市場経済の導入の度合い」で測ろうというのは、別の幻想だと思います。「市場の意思表示」は、結局消費側からの(=生産物の流通過程を主体とする)民主主義を担保する原始的・無政府的な方法でしかないし、それに取って代わる方法を、人間は編み出すかも知れない、と思っているからです。
権力運営が充分に民主化されてもいないのに、取って付けたように「市場経済」を導入しても、全体としての生産を混乱させ、金儲けに走る不埒な輩を出すだけだと思っています。いまの中国がその良い例だと思います。
成功か失敗か、と問われれば、旧来の「社会主義」政治体制は、(主観的には)目指していた社会主義の実現に「失敗」した、と考えております。
こんなもんでよろしいでしょうか?ちょっと酔っぱらって書いてしまいました。