緑の樹々様
興味を持った点についてもう一つコメントを書かせていただきます。
で、50年の実験の「総括」ですが、まず、古典的な主権国家の分立を前提として、 「一国社会主義」の可能性を肯定する世界像の下で考えれば、社会主義(生産手段を 社会が「直接に握る」ことを特徴とする)・共産主義を自覚的に目指す勢力が国家権 力を握った場合でも、その社会における民主主義と人権(とりわけ政治的人権)の保 障が不充分であれば、その目標は達成できないことを、この50年の壮大な「実験」は 示したと思っています。
この点は取りあえずおっしゃっていることはわかります。色々ありますが、『国』 という単位でこの地球上の人々がまとまっていることは前提なので、社会主義であろ うと何主義であろうとやるならまず『1国』でスタートしなければならないですよね。 それが良ければ他の国もまねをするし、悪ければまねはしない・・・そういうことに なりますよね。民主主義と人権、まさにここでしょうね。それが社会主義を目指した 国では不十分だった・・・それどころか民主主義と人権は敵とみなされた。不十分だっ たなんてもんじゃないですよ、見方によったらファシズムそのものにも見えます。で も問題は『何故』なのということなんです。
より突っ込むと、生産手段を社会が「直接に握っている」と言えるためには、民主 主義と個人の人権保障が不可欠であり、これは「握る」ことの内容であるとまで思っ ています。土台である生産関係と上部構造である政治制度とは、互いに相携えている と考えるわけです。
したがって、旧「社会主義体制」が崩壊したからといって、「社会主義」そのもの が幻想だったと総括するわけではありません。まだ本格的には、誰も始めていないだ けです。あらぬ方向へ迷走して「コケ」ちゃったから、「実験終了」のように見える だけです。
ここで、私の『何故?』に答えてくれるのかなと思って読んだのですが、やっぱり 答えが無いように見えるのは私が社会主義を理解してないからなんでしょうか。
「生産手段を社会(労働者)が直接握る」という言い方は良く聞きます。ちょっと 聞くとなかなかいい制度に見えます。しかし、良く考えてみるとどういうことなんだ ろう?とわからなくなります。倒産した会社をそこで働いていた労働者が再建して頑 張っているなんていう話題を聞くことがありますが、確かトプコンというカメラメー カーがそうだったように記憶してます。しかし、その後どうなったんだろうか?でも、 考えてみると昨日まで労働者だった人間が資本家の仲間入りをしただけなんじゃない だろうか、そうも見えるのです。経営者が居なければ結局会社は維持ないんですよね。 上部構造と下部構造が相携えてということは、結局政治制度が変わらなければ一つの 会社だけが社会主義的手法を取っても所詮生きてはいけないのだという意味なら、ま あそういうことなのかとも思いますが、現在の資本主義の社会の中でモデルを見せる ことができないと『今に満足している』人々にとっては結局未来永劫わからないって ことですよね。わからなければ社会主義が如何に優位であるか説いても結局理解はさ れないんじゃないでしょうか。
『だから、幻想だと総括するんじゃなくてまだ本格的に初めて無いだけなのにあら ぬ方向に迷走してコケチャッタ』だけだというのも何か寂しいですよ。50年前、ソ 連に期待した方は多かったと思うのですが、それがコケチャッタじゃ済まされないん じゃないでしょうかね。危機感が足りないっていうんでしょうか。もっと、社会主義 という考え方そのものにも問題があるという視点を持つ必要があるんじゃないでしょ うか。だから社会主義はダメなんだと言っているわけじゃないんですよ。自分達の考 え方理論にも問題があるんじゃないかという根源的なところまで遡って議論して、検 証して、本質的なものが何かを抽出して、そこから再構築しなければならないという ことを言っているんですよ。自分達の信じていたものを否定してみることは大変なこ とだろうけど、そこまでやらなければ再起はできないんじゃないでしょうか。
50年前の社会主義の概念と今考えなければならない社会主義の概念は違うんじゃ ないかと思うのです。たぶん共通している原理は、経済を計画的に行うということと、 それが人々を幸福にするにはどうするべきなのかという点だろうと私のつたない頭で は考えています。社会主義を唱えりゃ人々が幸福になるわけじゃないということだけ ははっきりしましたから。それから、たぶんこれも大事な点だろうと思いますが、社 会主義なんかくそくらえだと思っている人々も幸福にしなければいけないってことで す。反共主義とか反共分子も包含できる社会システムなのかどうかってことです。