あなたの「疑問」に答える者が、私で適任かどうかには自信がありません。と いうのは、いわゆる「社会主義論」については、私はごく初歩的な理解しかしていな いと自覚しているからです。「さざ波通信」編集部の方々を始め、私が知っている狭 い範囲でも、原仙作さん・人文学徒さん・愚等虫さん等々、すごい人たちがたくさん いますので…(他の優れた理論家の方々、挙げられなくてごめんなさい)。
ただ、私は思うのですが、いまの日本社会が「資本主義社会」だとしても、みんな
が「資本主義」について、あなたが言うような「よくよく勉強している」人であるは
ずはないですよね。
それと同じことが、「社会主義」社会についても、全く同じように言えると思うの
です。あなたがそう思えないのは、私の感覚(感覚ですよ)から言えば、「主義主張」
だとか「高度の理論・理念」がなければ「社会主義」社会が運営できないと、あなた
が誤解しているからだと思います。「生産手段を握る」ということにしても、そのよ
うに表現すると(それは、社会科学的になるべく正確に言おうという動機があったか
らに過ぎません)小難しい用語になりますが、それを使わなくても、例えばある「自
動車工場」でどんな車種(デザインや・仕様等を含めて)を・どのくらいの数量対価
で・どのくらいの期間で生産するか、そのために原材料や部品をどこから・どのくら
い・どういう対価で取得するかを決めるのに、生産者みんながよく話し合って決める、
という程度のイメージしか描いてはいません。社会システムがそうなっていれば、小
難しい「主義主張」などは要らないことです。
これが、あなたの「前提」に対する私の大まかな感想です。
次に1)についてですが、「社会主義『度』」を測る指標ではなく、「そもそも社
会主義と言えるかどうか」を測る指標として考えています。
ですから、前提として、主要な生産手段の実質的支配において私的所有が社会的所
有に移されている必要があるとは思っています。民主主義という「単なる形式」のよ
うに見えるものが、その「社会的所有」の内容となるのではないか、と考えている
(その意味は上記事例からイメージして下さい)わけです。これは本当に未熟な議論
で、ただの空想に過ぎません。だから、私が適任の回答者かどうか自信がないと申し
上げたのです。
これは、「社会保障制度が全くない時代」であってもそうだと考えています。その
時代から「民主主義」はあった(そして、普通選挙権と男女平等選挙の進展によって、
発展してきた)のですからね。
したがって、「社会保障制度がない時代は社会保障制度の有無で測ったが、それが
各国にできて民主主義が問われる時代になった今日では、民主主義で測ろう」という
のでは全くありません。
その上で、「社会保障制度」についてですが、「お金=貨幣」ベースでものを考え
るか、「労働生産物=現物」ベースでものを考えるかは、何も「社会主義」に固有の
ものの見方ではないですよね。それを確認した上で、あなたがおっしゃる「誰がお金
を払うの?」という視点から見ていくと、要するに「誰が、何に対して、どれくらい
のお金を払うのかを『決めているの』?」というところまで突っ込んで考えるという
ことです。その原資が「税金」になることが問題なのではないと考えています。その
「税金」を徴収される主体が自己決定していると言えるかどうか、この点こそが重要
だと考えているのです。
ですから、「社会保障制度における社会主義の体制的優位性」についても、社会保
障サービスを「受取る」側がタダだということ自体が即優位性なのではなく、それが
なぜ可能となったのかこそが重要です。資本主義制度をとる国家の中でも、一定の社
会保障サービスが「タダ」という国はありますからね。日本共産党も、その点はちゃ
んと考えていたと思います。もう少し考えないと、私自身はっきりしませんが……。
さらに2)についてですが、分りにくくて済みません。
前提として私の頭にあったことは、民主主義とのリンクです。というのは、「市場
は、生産物の現実の販売=交換を実現する場なので、個々の物の生産の可否・生産量
の適否等について、購入者が常に投票しているようなものだ」という理解が
あります。だから、市場で支持されない物は、結局生産から排除されていく
し、支持される物は、より生産活動において改良されたり・増産されたりする」こと
になるのだと考えています。
これは、とりも直さず、「流通=消費(生産手段の消費を含む)過程における民主
主義」だとも言えるのではありませんか? ただし、市場における購買活動は、相互
に関連なく・特に全体を見通す熟慮をすることもなくなされているので、非常に「無
政府的」で「民主主義としては原始的形態」だと思うのです。そしてこういう「市場」
に対する見方は、社会主義論とは無関係にあるのだと思いますが、どうでしょうか?
この仕組みは、別に「ヨークお勉強しな」くても経験的に分るのではありませんか。
この「市場の調整機能」は便利だし、「結局消費者がほしがる=本当に必要として
いる物を生産することになる」はずだから、「旧社会主義諸国」において生産が非効
率になされていたことを克服する妙案だと着目して、「社会主義経済に市場原理を導
入する」ということが言われているのだと理解しています。
もしも、私のように、生産関係における「民主主義」を社会主義の一つの決定的な
指標だと考えた場合、その民主主義を「生産物の流通過程」からフィードバッ
クするような考え方で構想することも可能だろうということです。それを指して、
「『市場経済の導入の度合い』で測ろう」と表現したのですから、おそらく、とおり
すがりNさんが学んだ(らしい)「社会主義論」には、全く入っていなかっただろう
と思います。
しかし、私はこういう考え方は、幻想だと思っているのです。すでに、いわゆる近
代経済学においても「市場の失敗」や「外部不経済」が指摘されているわけですし、
「消費者がほしがる」というのも、情報操作や世論操作の危険を全く度外視していま
す。
また、システム論的に、将来人間は、市場の「無政府性」や「民主主義的成熟度の
原始性」を克服するシステムを、コンピュータ技術等を利用して創り出すのではない
か、とも考えているのです。
これで、何とか「舌をかみそうにな」らずに、私の言おうとすることが伝わったで しょうか。これはあくまで未熟な者の「私論」に過ぎないことは、ぜひご理解の上で お考え下さい。