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受験勉強という呪縛から離れる時だと思います

2005/01/09 とおりすがりN 50代 会社員

 ponさん、真面目に考えてくださっているようで好感が持てます。私は、受験勉強という呪縛から離れることが重要だと思っているのです。仮に受験に失敗したとしても、得た知識は十分に役立つものだと信じているところから出発しているのです。

確かに、物事を考える時、多面的に考える際に、知識があった方がよいとおもいます。しかし、とおりすがりのNさまも、過去に習った経験を思い出していただければ、良いのですが、授業中に何かを懸命に考えたという体験はおありでしょうか?むしろ、必死に黒板の文字を写していたという記憶の方が強いのではないでしょうか?私が指摘したかったのは、現在の教育が子供にとって学びやすい体制ではなく、階級を固定化し(例、東大生の親の年収)、あるいは、教師が楽ができる(例、詰め込み教育)ような教育制度、環境ではないのだろうかということです。

 これは、今までの教育問題を議論するときの一つの典型的な論点だったと思います。私も、かつては漠然とですが同じように考えておりました。しかし、問題はその後です。つまり『学びやすい体制を作れ』というのはもう何十年も前に民主的な勢力に属す人々が主張していたことでした。そして、ただ一つ(だと私は思っていますが)『少人数クラス』という点を除けばかなりその方向が実現してきたのではないかと考えているのです。少人数クラスが実現してないとは言え以前よりかなり減っては居るでしょう。教えるべき量も削られ、週休2日になり『ゆとり』というものも出てきていることも確かだと私は思っています。人づてに聞いた話では民主教育に取り組んできた良心的な先生方も自分達が考えていた方向が実現してきたということを言っているということでした。

 私の場合は、もう50も過ぎておりますから、戦後民主主義教育という昭和30年代の教育で、皆生き生きしていた時代だったんじゃないかと思います。黒板を写すということも確かにありましたが、私はあまり写すのが得意では無かったので、どちらかというと写さずに考えているほうでした。ですからノートはあまり良いものではありませんでした。だから、小学校の時は、見事に3のオンパレードでしたから出来ない奴だと思われてました。3なら下があるからいいじゃないかと言ったら、そんなことでえばるなとこっぴどく怒られましたよ(笑)。

 しかし、現在行われている日教組の大会では、やはり基礎学力が問題になっていると報道されていました。ねじ曲げられた悪意の報道なのかどうかは私にはわかりませんが、私も大いに問題だと思っている教育の『軽量化』によって子供が戸惑っていること、それに対して教師も戸惑っている様子が見てとれる報道で、極めてリーズナブルな悩みを先生が抱えているのだろうということは伝わってきました。

 さて、基礎学力をどう向上させるか、私に考えられることはまずは真面目に『読み』『書き』『ソロバン』を、少々厳しくとも子供たちに教え込むということだと思います。『書き』の問題ではやはり漢字でしょう。少なくするのが良い教育では無いと思います。そもそも漢字なんか馬鹿にしてロクに勉強せずに今頃になってやはり小学校のころにもっと漢字を勉強しておけば良かったと感じている出来の悪かった私がそう思っているのです。でも、漢字なんか『大量に』覚えなくてもいいよと言ってくれた民主的な先生を恨んでいるわけではありません。そういう考えに載せられて自分がアホだっただけですから。今からでも遅くは無いけど、無駄な時間を今使うことに対する忸怩たる思いはあります。

 『読み』は言わずもがなでしょう。なるべくたくさん読むことが大事です。小説、ドキュメンタリ、自分が信じるもの、自分が信じないもの、色々な角度から勉強することが読むことを通じて成就できます。比較的多くの本を読んだ私は、漢字の読みはそれで救われてますが、書くのがダメです。

 『ソロバン』=計算、ですね。これは算数であり数学につながります。公式の丸暗記は詰め込み教育の典型として忌み嫌われてきました。そして分数の概念を丁寧に教えることが推奨され、概ねそのような教育にシフトしてきたと思います。そのため、分数の概念の説明に時間を取られ、なかなか先に進めないというような状況も出ていませんか?まったく逆の考え方として、分母が異なる分数の足し算なんか、理由なんかわかんなくていいから『まずはやり方を覚えてしまって徹底的に計算問題を繰り返す中で覚えてしまえ』という方法もあります。分数の割り算なんかひっくり返して掛けろなんていうたぐいですね。そして、先に進んだところで、振り返って理由を考えてみようということもまた良い方法だと思うのです。

 九九というやつがありますね。これはどんな民主主義的先生であっても理由をとやかく言わず、まずは覚えさせます。覚えてくれないことには、先に行きようが無いからですね。それを考えれば、算数なんていうのは随所にそういうところがあって、まずは覚えてしまえ!という場面がたくさんあります。そして、ある程度数式を操れるようになって、その後でゆっくり理由を考える。これもある種のゆとりなんですね。それと同じことに皆さんは『今』遭遇しているのではないでしょうか。

 コンピュータです。コンピュータの原理を全部完璧に理解して使ってますか?BIOS、BIOS設定、DOS、OS、BOOTROM、インターフェース等の知識を十分理解して使ってますか?ほとんどの方はそういうものは専門家にまかせて、使えるところで使えば良いと思ってるんじゃありませんか?

 確かにそれで十分に使えるので、それを私は全部否定しようって言っているんじゃありませんが、マイクロソフトなんていう巨大資本が使いやすくしてくれたからそうなったんで、それに乗っかって利用しているだけなんですよね。マッキントッシュだからって弱小企業がやってるわけじゃありませんからね。マイクロソフトの資本が入ってますよ・・・。

 でも、そのコンピュータが壊れたらどうしますか?お手上げでしょう。そして、サービスステーションに持ち込んで修理完了までに2週間かかると言われてその間は手足がもがれた状況に陥ってしまうということになってるんじゃありませんか?でも、コンピュータを本質に遡って理解していれば、ノートパソコンはダメですが、通常のデスクトップなら2時間あればどんなパソコンでもハードは直りますよ。少なくとも、壊れそうな部品やデータを把握して常にバックアップを持っていればいいのです(故障が起こらなければ無駄な投資ですが故障したときは御の字ですよ)。そして、1時間あればハードは直ります。ちょっとした知識と本質的な部分を理解しておくということに尽きるのですね。そして2時間かけてOSをインストールします。それでコンピュータは完璧に治るもんなんですよ。ほとんどの方はそれは難しいことだと思い込んでいるから資本家は大もうけできるわけでしょう。知識は宝なんです。

 私は、読み書きソロバンを小学校の時に徹底的に叩き込むという教育は、コンピュータの本質を学ぶことに匹敵することだと思っているのですが、どうでしょうか。受験のためではけしてないのです。受験のために無駄な知識を覚えさせられていると思ってしまったところに悲劇の始まりがあったとすら私は今振り返って見直しているのです。

 ついでに追加しておくと、十分な量の知識とは、それぞれがてんでんばらばらな知識として脳の中を飛び回っているんじゃなくて、きちんとネットワークになって相互に関連ずけながら頭の中にしまわれるものなのです。そこが教師の腕の見せ所で、知識の関連付けをするのが役目です。そうした知識のネットワークがきちんとできていれば、さらに新しい知識が出てきてもスムーズに入って来ると思いますよ。一つ面白いのは、東大とか京大を出た頭の良い方が知識なんかたいしたもんだいじゃないなんて言って教育界のリーダーシップなんかをとってるんですね。頭のいい人っていうのは、結構苦労せずに知識を溜め込むことが出来るんですよ、覚え方が上手なんですね天性のものなんでしょう。その基準で『中以下の子供』たちに、知識を追求するような勉強はダメだよなんていうのは、ちょっと問題だと思います。結局、これを真に受けて頭の良い子と悪い子の差がついちゃうんですよ。何しろ『頭が悪かった私が言うんだから間違いない』というところです。

 PONさんが考えておられる方向とはちょっと違うかと思いますが、こういう切り口で『知識』とか『考える教育』とかの本質についてちょっと検討してみてください。押し付けがましいことを言うつもりはありませんが、『受験のためにやっている勉強』という呪縛から離れてみてください。