現場からのコメントありがとうございます。興味深い点かもしれません。
教育現場の実情を理解してないという批判を恐れずに私なりに小学校生だった子供を通じて見た経験からコメントします。反論とかそういう視点で見ないでくさい。小学校は民主教育を売りにしている学校です。
その学校は、『100教えるというのではなく全員50がわかるようにする』点を強調しておりました。そして、それを眺めながら、いや、違うと感じたのです。従って、系統性が軽視されたかどうかの前に、この点を問題にしたわけです。つまり、十分な知識が無ところでは系統性を持って理解できない状況を生み出しているんじゃないかと感じたのです。従って、特に小学校では、覚えることにもっと力を入れていいんじゃないだろうかと考えるに至ったわけです。勿論、理屈をきちんと理解しながらより多くの知識を得る努力は必要であることは論を待ちませんので、単なる詰め込みを言っているわけではありません。問題は、100を教えるより50をしっかり、誰もがわかるようにすると言って、覚えさせる量を減らしても、しっかり理解することにはなっていないように思うのです。私が感じたことは教える量に関係なく、子供が覚える量は常に60%(数値は自信無いですが)なんじゃないかということなんです。つまり、100を覚えなさいよというと60ぐらいは皆覚えるとするなら、50をいくらしっかり説明して覚えるように言ってもやっぱり60%ぐらいしか覚えないんじ・・・(文字化け)・・・。一番わかりやすいのが漢字の問題です。一つ一つの漢字の成り立ちを十分に理解すればそれでたくさん覚えられるかというとそうでもないように思うということです。ある程度はそういう覚え方が良いと思いますが、あるところを過ぎたら後は機械的に覚える部分があってよいし、繰り返し練習などを持ち込んでも良いと思うわけです。小テストなどは良いし、それで出来なければ、しまったという気分が出るでしょう。で、実は、このしまったという気持ちが子供にとって必要なプロセスの一つなんじゃないだろうかということなのです。そして、機械的に覚えた後にまた、漢字の成り立ちを再度勉強するというように交互に題材を出して行くようなスタイルというのは効果的では無いかという気がするのです。そうすると、一方で別の教科で学んだこともまた利用することが出来るようになるのではないかと思います。
ですから、機械的に覚える部分だけを取り上げて知識の詰め込みだと闇雲に批判する姿勢を批判しているのです。
系統性を持って教えるという点について言えば、私は理系なので社会科のことはあまり立派なことを言えないので放棄しますが、理科の本質は系統性なので、いずれそれを無視しては理解すらできないし、私が習った経験では昔の教育でも系統性が無かったとも思えないのです。むしろ、民主教育とかを熱心に考えている先生方が作る独自教科書などのほうが、考えすぎて無理があるんじゃないかと感じるくらいです。やはり、一人の先生がいくら理想に燃えて一生懸命にやったとしても、やはり一人よがりになるのではないかと思ったりするしだいです。熱心さは買うのですが実力がついて無いっていうのでしょうか。
ですから、総合教育というのは確かに理想的な感じはするのですが、むしろ逆に大変に難しいことを要求しているのではないだろうかという気がするのですよね。国語、数学、社会、理科、英語などの知識を総動員して系統的に考えなければならないわけで、十分にものを知らないうちに総合的なものを考えようとしても実は少ないように感じました。
で、結局『出来る子供』と『出来ない子供』を見ていると、物事を理解するところから入っている子供には知識が付き、知識だけを覚えようとして理屈を考えない子供は努力しているわりには知識が増えないという結果に終わっているように見えます。
系統性というのは、そういう個々の知識量がある程度増え始めてから、それらの知識と知識の繋がりの中で見えてくるものでは無いかというように感じるのです。
じゃあどうするかという問題になるのですが、はっきり言って難しいです。しかしだからと言って国の政策が悪いというだけでは何も回答が得られないように思っているわけで、そこで私は阿Qさんの意見に理解を示すことはできません。もう時代は、国の教育政策を超えたところで議論をする必要があると思っております。