前回Nさんの悪口を書きましたが、言いすぎたかもしれないし、私は固定した見方しか受け入れないつもりではないので、補足します。私が感情的になったのは、教育をめぐる危機的な状況とは無縁な、のんびりした感じで「教育問題を幅広く」と言われた様で、ムカッとしたのです。
このところ教育問題と言えば、OECD諸国の学力テストの結果が話題の的でしたが、これは余り意味がないのじゃないでしょうか?「韓国よりも成績が低い」とか言うことは、愚劣なナショナリズムをかきたてることにしかならないでしょう。
私は自分がナショナリズムと無縁だとは思っていません。日本の伝統芸能を愛しているし、「ユーモアのセンスは日本人が一番だ」などと言って娘に「他の国のジョークや小話を知らないだけじゃないの?」と批判されています。そういう他愛の無いお国自慢は害が無いけど、「あの民族より我々の方が優秀だ」などと言い出すと、精神が歪んできて、政治にも影響します。普段子供に「自分らしさを」などときれいごとを言いながら、いざとなると親のメンツのために「自分らしさ」を捨てて勉強させ、国のメンツのために勉強の競争をさせる。そんなものは「教育」じゃありません。
学力の国際比較は、教育学者が教育内容や方法を比較検討するために利用すべきで、我々素人にとって意味があるのは経年比較、つまり自国の過去の成績からの変化から、「我々はこのままでいいのか?」と考える材料としてでしょう。しかしそのテスト結果が大問題として騒がれたことが、現在の教育論議の底の浅さに対する不安を感じさせます。
私が30数年間主張してきたことは、「愚劣な管理をやめろ」と、「子供達が生きる力になる学力を身につけさせろ」ということでした。しかし今や、それさえ無意味になったのではないか、と感じています。
これまで数十年間、その時々の国家と企業の要求にこたえる人材養成のために、中央教育審議会がそれぞれの段階で異なる課題を設定して教育政策の変更をもたらしましたが、常に具体的な教育内容の変更と、道徳教育を中心とする「期待される人間像」的な基本的な教育政策の課題がセットになっていました。
日本の教育政策は、常にこのパターンで策定されてきたことを、まず確認する必要があります。かつては、文句を言わずに与えられた課題を従順にこなす人間が求められ、「勤勉と詰め込み」で、自動車生産ラインで黙々と組み立て作業に従事する労働者のようなモデルに沿った教育が行われました。
産業構造が変化すると、「言われた課題をこなすだけの人間じゃだめ」と、「知財」などという流行語にあわせて、「創造性」が求められて、ディベートだの「考える力」などと騒がれましたが、その内実は、幾何の軽視や理科や社会の内容の吟味(子供に必要か)よりも便宜的な科目間のバランスによる削減のようなものであり、また同時に「個人の創造性」に枠をはめる愛国心が打ち出されました。
「ゆとり教育」なるものは、その提唱者達が露骨に発言しているように、「出来の悪い連中に手間と金をかけてもしょうがない」という、最悪のエリート主義を国民大衆に納得させるために発明された言葉であり、それは平行して進められている愛国心を中心にした教育基本法改悪とセットになった物であること。この現実を厳しく見つめない教育論議は、お遊びでしかない。これが前回言いたかったことでした。
学力論争が無意味になった、と私に感じさせた重大な変化について述べる前に、大分長くなってしまいました。そっちの方が重要だと思っているのだけど、長々と書いても誰も読まないだろうから、とりあえずこれでやめておきます。