初めての投稿を拝見して、とても嬉しく感じました。年明け以来、仕事の ペースがいちだんと厳しくなってきたため、これから先どのくらい閲覧や投稿が できるか、私自身、心許なくなってきています。
それはさておき、お尋ねの「大衆運動と新日和見主義批判」に関する感想です が、私の人文学徒さんに向けたお答えの(その1)では、若干舌足らずの点が あったかと思います。川上徹氏(1940年生)を起点として、過去へのこだわりさん と私とは、ちょうど7~8年くらいずつの年齢差があるように感じ、受けとめ方 にも差が出ているのではないかとも感じておりますが…。
ただ、あなたが「1970年代を大学で過ごした」とおっしゃっているので、大学 で過ごした時期はほとんど重なっているのかなという気もします。ちなみに、私 が1978年8月2日付の幹部会決議に接したのは、休学中でした。ですから、幹部 会決議・5中総決定が出た後の在学生党員の慌てふためき方、私たち(当時の学 生としての)ロートル党員への「気の毒に…」という憐憫を交えた同情のまなざ しは、痛いほど感じました。ほぼ同じ時期を大学で過ごしても、あの後輩のまな ざしにじかに接したかどうかは、やはりその後の印象をかなり違ったものにした 原因になっていると思います。
>しかし、私はこの学生時代の4年間を決して若気の過ちとして捉えていませ ん。この4年間で私が学んだ物の見方、考え方は現在の私を支えており、決して 無駄であったと思っていません。(私は離党した今でも共産党は私を育ててくれ たとおおいに感謝しています。)
かなり冷淡な言い方をしたため、私が単純に「若気の過ち」と捉えているよう
に受け取られたのかも知れません。しかし、全体の論旨からもお分りのように、
私も「この4年間で私が学んだ物の見方、考え方は現在の私を支えており、決し
て無駄であったと思っていません」。ただ、その代償はあまりに大きすぎた
と感じています。
そしてその「代償」は、単に個々人のみならずその後の日本の革命運動全体の
レベルに影響する重大な否定的効果を持ったと考えているのです。その意味で
は、「共産党に感謝する」ところまでは、私はとても行けません。個人の問
題を超えているからです。自分の人生における意義を振り返って「感
謝」して済む問題ではないと考えています。その点では、過去へのこだわり
さんが「新日和見主義批判」について感じられているのとまったく同じように、
あの不合理な活動スタイルの継続時期が「一つの画期(epoch)」をなしたと考え
ているのです。
>しかしその時代を生きた者として、あの当時の活動には勢いがあり、
その通りだったと思います。革命的空文句が飛び交う「勢い」に満ち満ちた、 その実それを支える本当の実力に乏しい、それでも、公害撲滅や沖縄の核抜き基 地抜き返還実現、ベトナム戦争反対の国民的世論の高まりと社共統一戦線への国 民的期待に支えられて、「革新上げ潮の時代」と呼ばれる歴史的一時期が形成さ れたような、そういう勢いに満ちた時期であったことは間違いありません。現党 中央には、未だにその時代の「勢い」への郷愁があるように、私は感じていま す。
この点については、もう少し補足が必要かも知れません。
実は私が人文学徒さんへのお答え(その1)で「学生党員として活動に本格的
に入った」と書いたのには、高校生時代から民青同盟の活動に深く参加していた
という背景があります。
日大・東大「紛争」の盛んな時期でしたから、高校生の政治活動にも学校の目
が特別に光らされ、朝早く初電で登校して各教室の机の中にこっそりと民青のビ
ラを撒くといった「非公然活動」もしていました。さすがに選挙活動には、公職
選挙法の規定を遵守して参加していませんでしたが…。
大学進学率が25%程度の時代に、たまたま、大学進学希望者が圧倒的に多い高
校だったことや、地区委員会管内の他の高校ではそれほど進学率が高くなかった
せいで地区党(民青地区委員会と同じ建物にありました)の指導も進学について
は皆無だったこと等から、高校時代から「活動をまともにしていると学校の勉強
さえ満足にできず、大学進学は困難になる」という事情は明白でした。
何度も改善を訴えましたが、そもそも当時の地区同盟・党のレベルでは、解決
不能な問題だとも思いました。彼らは、当面の課題をこなすだけで精一杯だった
からです。それで、さらに上級の同盟機関にも訴えに行ったこともあります。
つまり、過去へのこだわりさんが「就職後の党活動で地区委員等と話して いて、その能力のなさに驚くばかり」と書かれている現状は、大学に入る前か ら、私にとっては自明のことでした。「新日和見主義批判キャンペーン」が なされるずっと前のことです。大学はいわばその「第2ラウンド」でした。その 時期から私には「批判的視点」はそれなりにあったのです。
それなのになぜ、過去へのこだわりさんほどの「注意」も払わず、むしろ「宗 教的参加」に近い活動を学生時代にもしてしまったのか、と不思議に思われるで しょう。
それは、私が、当時その官僚性をすでに痛感していた党の組織・機構の中で、
党活動のあり方を改善するためにも、「実績のある」党員として認められて、重
要な発言力を獲得しようともがいていたからです。
当時すでに、勉学問題を理由に未連絡(当時は未結集)党員が増加しており、
単に勉学保障を訴えるだけでは、「何だ、未結の肩を持つのか」と相手にされな
いのが普通でした。そういう中で、この活動の歪みは自分だけの問題ではない、
「本格的に学んでいない」世代が社会に出て行けば、将来の革命運動に重大な支
障を来す、だから、「実際に活動もしっかりやった上で、そういう人物が正当に
活動の改善を提起している」と上級機関からも評価され受け入れられるよう、現
実に活動改善に繋がるような立場に立って、その力を利用して全体を救わなけれ
ばならない、と本気で思っていたのです。
まだこの時点では、「水戸黄門」と同じで、問題は中間機関(=悪代官)に解
決能力がないことにある、党中央(=水戸のご老公)はこの不合理さを見過ごさ
ない、と考えていました。実際、「葵の御紋の印籠」が1978年8月2日付幹部会
決議となって示されたわけです。もっともそれは、決して党中央の問題解決能力
を発揮したものではありませんでしたが……。
それともう一つには、50年問題の教訓として示された民主集中制に対する厳格
な規範意識もありました。
最末端の長をしていたときにも、自分自身は、過大な「指導目標」値が提示さ
れても、それをなるべく現状の力量と条件に合わせるべく「抵抗」していまし
た。その当時の私の意識では、キャップは、上級機関からの理不尽な「指導」に
対して、仲間を護るため防波堤になる役割だと思っていました。その上で、
「決ったことは無条件で実行する以外にはないだろう」と考えていたのです。そ
ういう私の気持ちも知らずに、私のことを「スターリニスト官僚」と揶揄して不
活動を正当化する同志には、本当に頭にきていました。
こうした状況の中で、私が何度も訴えた活動改善について、上級機関が決まり
文句のように繰り返していたのが、「勉強時間を確保した結果、選挙に負けてし
まってもいいのか!」という恫喝でした。ここにいう「選挙」は、必ずしも自治
体や国政選挙だけではありません。学内の自治会選挙でも、まったく同じように
いわれました。
つまりここには、過去へのこだわりさんが指摘されるような、「大衆運動」と
「党勢拡大」の区別などはありませんでした。もっとも、過去へのこだわりさん
が、自治会活動としてのストライキは「大衆運動」だが、自治会役員選挙は「党
勢拡大」だとお考えならば別ですが…。
>私の所属した大学でも私が入学したときはすべての学部を全共闘系が握ってい ましたが、私が卒業する際には、すべてが我々の側が握っていました。また総選 挙でも常に倍々ゲームで躍進し、また赤旗には常に役員選挙で勝利したとの記事 が躍動していました。
>こうした共産党の躍進に「水をさした」のが「新日和見主義批判」だったと私 は思っています。従来から共産党は2本足の活動を掲げていましたが、どちらか と言うと大衆活動を犠牲にしても党勢活動に力を入れていました。「新日和見主 義批判」はこの2本足の活動のバランスを崩し、党勢拡大こそが最大の自己目的 である党活動に変質させていったのではと私は思っています。
これは、私の理解とかなり違っています。
まず後半部分は、「新日和見主義批判キャンペーン」の犠牲者たちは、従来か
ら「大衆運動」にも相当の力を割いていて、辛うじて「2本足の活動のバラン
ス」を保っていたのに、このキャンペーンによって一気に「党勢拡大一本槍」の
活動へと転換した、という理解だと思います。さらに、その論旨の前半部分との
繋がりは、「そのような辛くも2本足のバランスを維持した活動こそが、党の
『倍々ゲーム』の躍進を支えていた」というようにも読めます。
しかし、川上徹『査問』(ちくま文庫版)237頁~247頁の記述をみても、当の 犠牲者自身、そのように考えていなかったことは明白です。彼は次のように言っ ています。
>私は、新しい時代が始まったことを感じていた。だが、それは希望に満ちた新 しさというものではなかった。それは、その頃になって急に感じられるように なった足元の不確かさ、こちらが思うようには燃えない青年学生大衆、さらには 自分たちの組織自体の停滞をともなって始まった時代だったからである。
登場しつつある新しい時代がどんな時代なのか、当時の私にはまだよく分から なかった。耳あたりのいいものではなかったが、駆け足で近づく時代の足音は聞 こえた。しかし、その姿形やましてや輪郭まではよくは見えなかった。運動や自 分たちの民青組織の現状がどうであれ、党は選挙ごとに躍進していた。本当にこ のまま民主連合政府はできるのだろうか。党の幹部たちは「我々が奮闘すればで きるのだ」と言う。それを本気で信じ込んでいる者たちもいた。だが、私には到 底実感できるようなものではなかったことは確かであった。(同書pp244~245)
1.「本当にこのまま民主連合政府はできるのだろうか。党の幹部たちは『我々 が奮闘すればできるのだ』と言う。それを本気で信じ込んでいる者たちもいた。 だが、私には到底実感できるようなものではなかったことは確か」だというの は、過去へのこだわりさんが一定の信頼を置いていた「新日和見主義批判キャン ペーン」の犠牲者たちが、当時のあなたのように「近い将来必ず我々が権力を奪 取すると本気で考えて」などいなかったことを、如実に示しています。
2.「こちらが思うようには燃えない青年学生大衆」とはよくぞ言ったもので す。この人たちがいう「大衆闘争」とは、学生自治会が統一して行う「ストライ キ」だったり、「街頭デモ」だったりするわけですが、学生は、永遠に学生であ るわけではありません。通常は入学4年後には社会に出て行かねばならないので す。この人たちが、個々の学生の20年後・30年後を見据えて指導をしていなかっ たことだけは、上記の記述からも明らかではないでしょうか。
3.「その頃になって急に感じられるようになった足元の不確かさ」というの
も、内容が定かではありませんが、もし私がいう「本当の実力の圧倒的不足」を
指しているのであれば、そのことに気づくのが、高校生だった私よりも遅れてい
たということに他なりません。
人文学徒さんへの投稿で、私が島田豊論文の強い影響も受けたと述べていたの
は、地区同盟・地区党の実情をみて、「こんな人たちが、これほど高度に資本主
義が発達した日本で政権を取ったら、エラい混乱が起きる。だから今のうちに実
力をつけておかなくちゃ」と考えていたからです。
「新日和見主義批判キャンペーン」犠牲者の人たちが、現実の情勢・力関係・
国民の意識状況を精密に分析せず、いつまでも60年安保闘争の偉大さに対する郷
愁から闘争を組もうとしていたことに、「足元の不確かさ」を感じる上での圧倒
的な立ち遅れを感じざるをえないのです。
4.「その姿形やましてや輪郭まではよくは見えなかった」新しい時代の本質を
こそ、彼らは科学的に分析して把握し、うわついた「革新上げ潮の時代」の風潮
を、春日違憲質問・袴田里見転落などでも決して萎えない本物にするために、適
切な方針を策定すべきだったのです。
また国民の期待を基礎とした社共統一戦線をより強固なものとし、共産党排除
の社公合意を許さない政治情勢作りに邁進すべきだったのです。
本当に、この時期の共産党は、「革新上げ潮の時代」の「倍々ゲーム」に浮か
れて、革命運動の最終目標との関係で味方の主体的力量を主観的に過大評価し、
動揺した敵に「態勢立て直し」の時間的余裕を与えるという、最大の失態を演じ
てしまったと、悔まれてなりません。
その意味では、「新日和見主義批判キャンペーン」の犠牲者たちも、これを弾
圧した当時の党中央も、私には「同じ穴の狢」にしか見えないのです。
この主観主義的傾向は、いわゆるトロツキストの諸潮流においてはいっそう顕
著でしたが、その影響を、日本共産党他の「自覚的民主勢力」も少なからず受け
ていたと、いまでは考えています。そしてこの傾向は、「新日和見主義批判キャ
ンペーン」のずっと前から、例えば、「資本主義の全般的危機論」などの観念的
理解にも影響を受けて、徐々に深まっていたと、私は考えております。
最後に、過去へのこだわりさん、もちろん、共産党は私を「育てて」くれまし
た。
特宣隊に参加して見ず知らずの土地に行き、一日中「アポなし突撃訪問」をし
て「赤旗」の拡大をしたり、地域住民の要求を聴いて回るなど、学生党員は、社
会に出る前からいっぱしの「営業度胸」と「営業手腕」を身につけていたと思い
ます。
しかし、そんな「軽業」みたいなことで世の中を渡っていくことほど、虚しい
ことはありません。結局は、過去へのこだわりさんご自身も、後から勉強せざる
をえなかったのではありませんか? そしてたまたま、党員でない学生も、学生
時代には結構遊び呆けていたので、何とか間に合わせることができたのではあり
ませんか?
今あの時代と同じことをやったら、若いうちでも決して埋めることができない
差になります。あの時代でラッキーだったとしか言いようがないのです。
これであなたのご質問へのお答えになっているでしょうか。