私が前回の投稿で書いた「(長壁さんへの)あまりにも劣悪な投稿」というのは、さざ波通信ではおよそ見かけることのないほどのものでした。さざ波通信では管理人による投稿規定の運用がありますから、あれほどのものは通常は掲載されることがありません。
久しぶりの投稿をしたあとで、長壁さんのことが気になっていくつかのサイトをのぞいてみました。このときに私が読んだ論争は「あまりにも劣悪な投稿」ではありませんでした。少し詳細に読まないと私自身の具体的な見解を述べることができないので、これはちょっと保留とします。
私たち共産党員にいま問われることは何かと考えると、ごく大まかに分けて、戦争への歩みを進める政治、民主主義をめぐる危機的状況、社会の底辺にある民衆の生活危機など具体的な日々の課題にどのように対応するかということと、ソ連崩壊後、権威は地に落ちたといわれる社会主義、共産主義をめぐる根本的な問題、いいかえれば革命の根本的諸問題があると私は思います。
戦後の日本における平和、民主主義、生活擁護の闘いは、良くも悪くも社会党・総評、共産党などの左翼ブロックを主要な担い手として展開されたということが現実でした。日本における大衆運動がこのような歴史をもっていたがゆえに、ソ連崩壊とこれに続く伝統的左翼の消滅、退潮が、日本における、たとえばイラク戦争反戦運動の異様なほどの低調さの背景になっていることはまず間違いありません。運動のこのような驚くべき貧困についての日本共産党指導部の責任は問われなければならないにしても、そのすべてを日本共産党指導部に帰するわけにもいきません。
この投稿では、社会主義、共産主義の理論、まとめてマルクス主義と呼ぶことにしますが、私のような四〇年ほどの党歴をもつ者が学んできた「多少とも定式化されたマルクス主義の理論」は長期にわたるスターリン時代の刻印が深く刻まれています。史的唯物論にしても、たとえば原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義、社会主義という時代区分論は歴史的に帰納されたものではありません。この時代区分論はじめ伝統的な史的唯物論のカテゴリーはもはや今日の歴史学の批判に耐え得ないものも少なくないのではないでしょうか。
私たち高齢の党員が学んできた理論は根本的な再検討なくしては、革命の指針としては使い物にならないかもしれないという認識は私にもあります。また、生産力と生産関係の問題、土台と上部構造についての機械的な理解に私は同意しているわけではありません。実際の歴史はもっと具体的であり、豊富であり、歴史は「生産関係が発達した生産力の桎梏となって生産関係が変革される」という命題を機械的に理解した歴史観では説明ができません。
このサイトでもマルクス主義理論についての応酬を見かけますし、私からすれば、左翼的、戦闘的な人々が「目前の実践的課題に対して行う投稿」には多くの場合、共感を持ちながら読ませていただいていますが、これらの人々がマルクス主義や社会主義などについて語る投稿を読むとき、何らかの批判的見解をいだくことがあります。
私がこれらについて批判的投稿をしないのは、投稿する時間的余裕がないこともありますが、私自身が伝統的なマルクス主義理論に代わるものをもっていないということが最大の理由です。言い訳になるのかならないのかわかりませんが、これが不破、志位路線に批判的な共産党員、非党員の人々も含めた社会主義者たちの現実ではないかと思うのです。この膨大で困難な作業は本来であれば日本共産党指導部が率先し党内外の英知を集めて行わなければならないのですが、今日の不破、志位指導部にはその意欲も能力もありません。
このサイトでも、いくつかの意欲的な投稿を拝見します。たとえば原仙作さん労作などは興味と敬意をいだいて読ませていただいていますし、樹々の緑さんの3回にわたる長い投稿も興味を持って読ませていただきました。いくつか疑問もありますし、私自身も討論に参加したと思わないでもありませんが、いまの私の生活環境ではなかなか「資料をひもといて」という作業ができません。今はキーを叩くだけで書けるような投稿しかできません。できればその程度の投稿でもしてみたいと思っています。
私は実践活動家として育った党員ですからどうしても実践的課題から離れて思考することができません。いわばマルクス主義や革命の理論など関する課題ともに、現実政治の中で進行するさまざまな問題、反戦平和、民主主義、生活擁護などの課題も最重要課題として位置づけなければならないと思っています。このサイトのイラク戦争欄、北朝鮮問題蘭などで、反戦の論陣を張り、米英などの侵略を糾弾する投稿をされる人々にもやはり敬意をいだきます。
私は、反戦平和、民主主義、生活擁護などの課題に関する最も基本的な立場が揺らぐことはありません。私の四〇年ほどの共産党員としての生活において、「革命」は結果的に「遠い」ことでしたが、私の共産党員としての生活はほとんどこれらの課題に費やされてきたのですから。
私が前回の投稿で名前をあげて言及した方たちの他に銀河さんも頑張っておられます。私はこれらの人々の基本的な立場において共感を覚えます。まったく批判的見解をもたないわけではありません。年に数回しか投稿できない私は、たまに短い投稿をするぐらいですから、主旨を批判的見解とすることは困難です。批判の対象としたくなる投稿はもっと他にたくさんあります。
たくさんの投稿の中には、内容的に確信的右翼といってよいものもありました。また、結果的にそのように思われる投稿の中には悪意のない疑問、意見、さらには共産党や左翼の誤りを正当に指摘したものもあるでしょうが、中にはかなり巧緻な努力――幾重にもオブラートに包んで――をした「右翼的投稿」も過去には間違いなくありました。しかし、問題は少なくとも善意とはいえない投稿とそうでないもを簡単に区別できないということが、これらに対する対応を難しくしています。
このサイトは現役党員を含めた人々が意見を公開しあうほとんど唯一のメディアです。さざ波通信に積極的な意義を見いだす人々にとって、平和や民主主義、平等、社会進歩に背を向けるがごとき投稿があふれるような状態であったとすれば、それはやはり好ましくないと思うのは当然のことでしょう。これらの投稿に対して、「取り合わない。無視をする」というのもひとつの方法でしょう。しかし、できれば可能な限り反論することが必要であるし、反論した方がよいことは間違いありません。
建設的な討論は歓迎すべきですが、論争の勝ち負けだけを問題とするような討論はいずれにしても疲れます。「ロム3さんへ さざ波は「狭量」なサイトでいいんじゃないですか 2005/01/24 有島実篤さん」はおそらくそのあたりのことをいわれているのだと思いますが、批判的であっても傾聴すべきものがありますから、これらを排除することには私は賛成しません。
このサイトは、投稿規定を設けた上で公開されたサイトですから、さまざまな意見が飛び交うことは大切なことであり、それは多かれ少なかれ社会的状況の縮図、反映であります。同意できない投稿に対しては批判投稿をもって応えることが基本でしょう。
イラク戦争欄が設けられて間もなく、イラク戦争を肯定する投稿に対して、たくさんの批判が集中し、長壁さんに対するたくさんの支持が寄せられたこともあったし、劣化ウラン弾の討論ではさつきさなどからの説得力がある投稿によってある種の決着がついた感もありました。さざ波通信の読者、投稿者にはそれぐらいの潜在的な可能性があるということです。
さざ波通信が開設されてから間もなく6年になろうとしています。この間、たくさんの方々が投稿されました。この中にはたくさんのすぐれた能力を持つ投稿者がみえました。これらの方々が投稿されれば、このサイトで展開される論争はもっと充実したものになるだろうと思うのですが、残念ながらまだそのようにはなっていません。
私は、反戦の論陣を張り、米英などの侵略を糾弾し、平和や民主主義、平等、社会進歩のための闘い、差別に反対する人々の投稿の共感者です。そして、私は何よりもこれらの運動が前進することを願ってやみません。
私たちがある種の社会的運動をするとき、方針は正しかったか、運動の進め方は正しかったかということを折りにつけ確かめなければなりません。その最も大切な観点のひとつは、具体的な事情に即してではありますが、どれだけ共感してくれる人が増えたか、ということではないでしょうか。口を極めてブッシュ大統領を非難し小泉首相を糾弾しても、その討論の過程で善意の人々の顰蹙(ひんしゅく)を買い反発を招くようであれば、その討論は運動の前進にとってマイナスになります。
「実践での検証」という言葉があります。学問的なもの、ある程度精緻な理論上の問題などを除けば、私たちが日常の生活で行う討論は、もともとある意味では「白黒のつかないものが多い」のであるし、具体的な課題での運動――たとえばイラクからの外国軍隊の撤退など――を推し進めることが目標であるはずですから、「どれだけ共感してくれる人が増えたか」という観点で、私たちの運動――さざ波通信への投稿もそのひとつ――を検証しなければならないと私は思うのです。