親切なお答えありがとう
樹々の緑さまお忙しい中、私の過去のこだわりに対して親切なコメントありがとうございます。
まず最初に謝らなければならないことがあります。自分の大学時代の在籍期間が間違っていました。1970年に私は卒業し社会人になっています。新日和見主義批判が何時でたかの認識も定かで無く、事実関係で少し混乱していました。
それと職業欄を「会社員」としていましたが、実は「公務員」です。会社員としたのは私の事を気づく人がいるのではと「公務員」を避けましたが、樹々の緑さんとお話をする上でもう少し私のたっている位置を明らかにした方が話しやすいと思い「公務員」に訂正させて頂きます。
私が新日和見主義批判に接したのは、就職後だと言うことが思い出されて来ました。最初に「事実認識等に付いては誤りがあるかも」とお断りをしてさざ波通信にメールを出しましたが、どうも事実関係で相当誤っていたみたいです。
ただ話の本筋は私がその当時受けた感想であり、今もそう思っています。なぜ公務員と言うことを明らかにしたのかは樹々の緑さんが「個人の問題を超えているからです。自分の人生を振り返って「感謝」して済む問題では無い」とされていますが、この間の樹々の緑さんがさざ波通信で明らかにされている大学時代の病気や、就職等において党の誤った指導の犠牲だとの認識があるように思えたからです。(この点は樹々の緑さんも最初にふふれられ、個人の問題では無いと確信して書いているとされていますが)
私はそういう意味では「党活動の犠牲」になったという意識が全くありません。就職後も労働組合の多数派を目指し活動し、有名人でしたから、職場での昇進と言う意味では大きな差別を受けました。しかしそのことがバネになりさらに強靱な私が作られたと理解しています。(これらはすべて公務員という甘い世界にいるから言える事だと思っています。) さらに樹々の緑さんがすでに高校時代に党の実状を知り、その改革を求めておられたのに対して、私は党は絶対であり、偉大なものと思っていました。党の決定はすべて正しく赤旗に載る無署名論文などは党の優位性を示すものとしてむさぼるように読んだ記憶があります。私の大学の党組織はしっかりしており、私はいつもその指導者達の理論や実践にあこがれていました。(極端に言えば党に弱点があるなど全く思っていませんでした。)
さらにもう1点樹々の緑さんと私の立場が違うのは、私は大学時代はサークル中心の活動であり、自治会役員や党の幹部になった事は一切ありません。そういう意味では党の無責任な指導と直接接点を持っていませんでした。赤旗に拡大月間だとの記事が一面に載り、また何処何処の地区が超過達成したとの記事とは無関係に存在してきました。 ただこう書くと極めて無責任な党員に見えますが、私は拡大月間等の取り組みは当時から批判的でしたが拡大には熱心でした。私は学生時代もあるいは就職後も相当多くの党員を拡大しており、現在私の職場でも私が拡大した多くの党員が奮闘しています。未だにこれらの人たちとは親交があり、そのことが「管理職」になった今も党活動に対して無関心ではいられないのです。
私は卒業後就職に当たっては、労働組合の多数派を形成し、日本の民主化に貢献しようと考えていました。労働者「前衛」の意識があり、労働者に「学ぶ」のだと思って就職したことを覚えています。しかし職場に入って見て労働者は必ずしも「前衛」では無く、共産党の地区委員会も市会議員も極めて水準の低い人たちばかりでした。
例えば私が地区委員会にたまたまいた時、ある組合が春闘のビラを持参し点検を受けていました。その中に「国民春闘」という言葉がありました。その地区委員は「この言葉はなんや!」と言いました。あるいは私が解放同盟との戦いでの戦い方の方針を尋ねた時「解放同盟との戦いは「暴力の問題だ」如何に彼らの暴力にうち勝つかが最大の課題だ」と言われました。
私はこのような地区党組織の現状を嘆き、なんとしてでも役員選挙に勝利しようと奮闘していましたが、党は具体的方針を全く立てる事ができず。労働組合の方針は唯一「特定政党支持」の誤りを説くだけでした。
また私が公務員だと言うこともあり大衆の要求は「労働者」としてよりも「市民」として今日的には組織されていることを感じました。そういう意味では市会議員の活動が重要だと思いましたが、市会議員の中には大衆の前に出るのが恐ろしいと逃げている者までがおりました。(この当時確か松下圭一氏が確か大衆化時代?みたいな論文を出され労働者前衛論を批判された様に記憶していますが、党は労働者前衛論で大衆化社会を批判されていましたように記憶しています。)
こうした状況の中で私は「知は力なり」という言葉を信じ、今の地区委員会の構成では全くダメだと確信を持つようになりました。このような無気力な「地区委員会」を形成している最大の問題が、大衆運動が指導できず、党勢拡大運動だけを党の方針にしているからだと考えるに至りました。その際の伝家の宝刀が「新日和見主義批判」であったと私は認識しています。
党勢拡大活動を否定する者は叩かれ、大衆運動を強めようとする者は新日和見主義とレッテルを貼られ批判されました。これは余談ですが私とこの議論をしてきた最大の好敵手が私の離党数年後離党しました。彼は私に話があるというので会って話をしたら、「実は私の言うことが本当は正しかった。自分は数人の拡大対象者を持っており拡大月間になればその人達を拡大していたが3ヶ月で切ってもらい次の拡大月間でまた拡大していた。こんな事をしていても党は大きくならない、尻窄みだ」と私に語った事を明確に覚えています。私はあの華々しい拡大月間の取り組みはこんなものでは無かったのかと思っています。最近では我々が学生時代見た一面トップの00地区超過達成という言葉さえ見なくなりました。党はいったいどこから打開しようとしているのかさえ見えていません。
話が樹々の緑さんへの返礼と言うより、私の思いばかりになってしまいましたが、
この主観主義的傾向は、いわゆるトロツキストの諸潮流においては一層顕 著でしたが、その影響を、日本共産党他の「自覚的民主勢力」も少なから ず受けていたと、今は考えています。
私は樹々の緑さんの人文学徒さんとの論争、拉致問題、イラク問題等ほぼすべて樹々の緑さんの意見に賛成です。樹々の緑さんの世界の情勢に対する分析、及び党再生の道筋等ほぼ全面的に賛成しますし、その知識・洞察力の深さに敬服しています。この引用文も樹々の緑さんの分析がおそらく正しいのだと思います。しかし樹々の緑さんも「今は考えています。」とされているように、当時としてはあの闘争は正しかったと思っています。あの時点で例えば東大闘争等であの戦いをしなかった場合、共産党はもっと大きな打撃を被ったと私は考えています。新日和見主義と批判されましたが、あの当時の赤旗は連日の様に1面トップで東大闘争を伝えていました。(これは単なる噂ですが、宮本委員長が最前線でこの問題の指導に当たっていると聞きました)
いまの共産党の組織実体を私は良くは知りません。しかし党員の高齢化が言われます。50代の党員が中心ではと思っています。新日和見主義と批判された運動の中で大量の党員が拡大され、その人たちが年を取った今も共産党を支えているのが現状では無いでしょうか?党はその後若者には見放されています。私も新日和見主義批判前後から大衆運動に参加しても、演壇には党の議員がずらりと並び、選挙活動としか思えない大衆行動に多く参加しました。若者がこのような集会に参加するはずはありません。ある意味では若者の「情熱・あるいは情念」に訴えないと運動は盛り上がらないのではありませんか?
樹々の緑さんは私の活動期間の少し後だと思われますので、あの時代の思い出をもう一つだけ言わせてください。私の大学4年の時は大学は全共闘に封鎖され、毎日毎日が「武力闘争」の時代でした。私は実はひ弱な人間でこの生活は大きらいでした。毎日学校に寝泊まりし(机の上で)夜中になると全共闘の学生が笛を鳴らしながら攻撃を掛けて来ます。そうして何回も起こされ、反撃をする、このような生活を行っていました。
ところが、この私が嫌いな活動が大好きな者も沢山いるのです。未結集であった党員が多く参加してきました。大衆も多く参加してきました。このことは私に取っては大きな驚きでしたが、場面場面で活躍する人間が違うのだなと実感しました。(これは余談ですが私はこの「武力闘争」で大けがをする羽目にもなりました。)
最後に、これも全くの余談ですが、私は大衆サークルで活動していましたが、全国大会が東京であり、その後党本部を訪問した事があります。その際対応したのが広谷俊二(?)さんでした。私が会ったことのある唯一の共産党幹部です。その時広谷氏が私たちに「学生運動論の本を書いているのだが、なかなか党中央の検閲に引っかかって差し戻され発売ができない。」と語られたことを鮮明に覚えています。わたしの印象は「親しみやすい人だが、こんな話をして良いのかな」と思いました。その彼が新日和見主義批判で失脚したので驚きました。私が話した事のある唯一の幹部だっただけに、この新日和見主義批判には私はなかなか受け止める事ができないのかも判りません。
以上樹々の緑さんに対する私の感想です。私はこの件で樹々の緑さんと論争しようとは別に思っていません。樹々の緑さんはお忙しいようですので、単なる私の「こだわり」と無視していただいて結構です。
ただ三部作もう一度読ませて頂き、そちらの方でまた意見を言わせてもらうかも知れません。