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一般投稿欄

人文学徒氏のよびかけに対するお答え(試論)~その2・中

2005/01/12 樹々の緑 50代 会社員

 個人的事情から、続きを書くのが大変遅れました。

 今回は、人文学徒さんが「エッセー」的に指摘される党の現状(惨状)への改革案 として、主として10/25付投稿で提案されている諸点について、私の意見を述べたい と思います。

 今回で、全体を終らせる予定だったのですが、またまた、書き始めると長くなりそ うでもあり時間的余裕もないこと、他方であまり投稿間隔を開けると、間が抜けてし まうことから、今回を(その2・中)とし、残りあと1回で、組織形態と組織原則に ついて述べることにさせて下さい。

1. まえがき

 はじめに、とにかく、科学的社会主義(とりあえず従来の旧規約前文にあるような 一般的な用語法として使うとして)の立場から党の組織論を論じるということは、自 分の得意分野でないことだけははっきりしているので、議論の道筋を誤らないように するために、この主題に関係すると思われる・昨年9月28日(これは、さつきさんの 投稿を基準時としたため)以降のめぼしいと感じた・諸投稿を参照してみました。
 原仙作さん・人文学徒さんを筆頭に、ロム3さん、草の根のひとりさん、Forza Giapponさん、paulさん(次回末尾にあなたの1/3付投稿への余談を書く予定です)、 そしてとおりすがりNさんです(漏れがあったらその方はごめんなさい)。個々の日 付は上げませんが、これらのうち、11月になされたロム3さんと人文学徒さんとのや り取りは、私の頭をスッキリさせるきっかけを与えてくれました。

 参照時期の例外は、「組織論・運動論」欄の浜吉さんと人文学徒さんの昨年6~7 月の往復各3回に亘るやり取り、さらに、2003/12/8付愚等虫さんの投稿、これに対 する2003/12/17付原仙作さん及び2004/1/7付人文学徒さんの返答投稿です。結局、 私の見解は、愚等虫さんとロム3さんとを足したようなものになっていると感じ ました。
 みなさんの議論にほとんど何も付け加えることがないと感じ、申し訳ないと思いつ つ書くことになりましたが、同時に、「これだけたくさんの人たちが、ほぼ同じ ことを考えている」事実の重要性を痛感せざるをえません。

 なお、用語法については、古色蒼然としたものになるかも知れませんが、原則とし て、「ある言葉が現時点における日本共産党の現実の活動において持っている(果た している)意味」ではなく、「本来その言葉が想定している(と私が理解し ている)意味」に基づいて、使わせていただきたいと思います。
 本当は、そこから吟味しなければならないのですが、私の能力には余ります。ただ、 「民主集中制」という言葉を抹消しても、実体としての民主集中制は依然として存在 しうるように、言葉にはその実在的根拠ないし実体的土台があると思います。ですか ら、その実体を規定している本質を突き止めて、そこにメスを入れる必要があるとは 考えています。
 なぜこんなことを最初に断るのかと申しますと、人文学徒さんが「弁証法的唯物論・ 史的唯物論を掲げるのは止めるべき」「日本共産党は理論政党だ」というときは前者 の意味で、ロム3さんが「個々の党員が弁証法的唯物論に徹すべき」「日本共産党は 理論政党ではなく宗教政党だ」というときは後者の意味で、それぞれ使われており、 議論がすれ違っている感じがするからです。その点では、私の感じ方はロム3さんに 近いのです。

 また、本稿の全体枠組は、人文学徒さんが「全体・骨子」についての意見・感想を 求められている点に甘えて、私自身の論旨の枠とし、その中で人文学徒さんの個々の 記述を引用して検討することにさせていただきました。また意見を述べる対象は、私 自身は、人文学徒さんの上記2004/1/7付投稿の方が纏まっているように感じましたが、 あえて原則として2004/10/25付投稿を基準といたします。

2. 意見本論

 人文学徒さんの上記2004/10/25付投稿で示された党改革案の「骨子」は、同年9/16 付投稿で示されたような「党の惨状」の原因を、一方で、現行の民主集中制を通じた 事実上の「党幹部独裁制」、他方で、これを通じて形成される「全党の意思」が「科 学的真理」とみなされる「科学的社会主義論」の、二つの面の不即不離の関係に求め ることに基礎を置いていると評価できるでしょう。ここでは、2004/1/7付に見られた 「上部構造の相対的独自性の軽視」という観点は、強調されていません(但し、 2005/1/1付投稿では、再度この観点が復活しています)。

 そして、人文学徒さんがここからどのような「対策」を導くかというと、記述の順 序は逆になっていますが、

 まず、「科学的」社会主義、その哲学という「科学的真理の党」をや めて、中期的行動目標の一致に基づくもっと幅広い党に変えることだ。

と総論的に提言しておられます。
 ここでは、「『科学的』社会主義と『科学的真理の党』」の標榜を止めることと、 「中期的行動目標の一致に基づくもっと幅広い党に変える」こととが等値されている と言えるでしょう。
 しかし、前者の「科学的真理の党」の標榜を否定することが自動的に後者の 「中期的行動目標の一致に基づくもっと幅広い党」を論結する関係にはないと思 います。ですから私は、その両者それぞれについて、その根拠を検証しつつ、両 者の内在的関係を析出すべきだと考えるのです。

 そこでまず、前者(=「科学的」社会主義の党、「科学的真理の党」の標榜の廃止) の根拠について考えると、この点人文学徒さんは、

 「科学的」社会主義の背後にある唯物論的「真理」の標榜という現在 の行き方は、異なった思想の持ち主、とりわけ宗教者を仲間自身としてははなから迎 え入れないと宣言しているのだという意味で、愚かなものだと思う。
 「社会主義国」は消え、人のつながりがばらばらなように多様化された現代社会に おいて、これからは「地上の問題」の一致だけでいくべきだ。
「天上の問題」を綱領の根本の所に持ち込むのは政党としては今や、自己満足に過 ぎないだろう。政治は地上の問題なのだし、その方がより広い人々に当面緊急なはず だから、広く手をつなげるというわけだ。

とおっしゃるわけです。その上でさらに、

 問題の中期的行動目標には僕としては、従来の革新3目標のようなも のに弱者救済などの考え方を加味、強調して、さらに反戦平和、原水爆禁止、地球環 境問題、子育て問題、発展途上国への国際的支援、国連の民主化などを大きな柱とし て入れて欲しい。また、文化的かつ倫理的香りがするようにもして欲しい。なおここ に、階級闘争的考え方、労働者「寄り」などの感じは無理に付与する必要はないと考 える。関連して、「資本家をばら色には描かない」を過大に扱うことも止めようでは ないか。
 「地上の問題」で行くということは、そういう問題で大は世界から小は地域、一職 場、一個人のためになどまで、大小の成果を上げることで国民、世界から評価しても らおうという行き方である。「私たちは科学的真理の体現者だ」と党内外に広める、 単なる学習や宣伝が第一という行き方は採らないということだ。

という「中期的行動目標に基づく広範な民衆の結集を図る党」を目指されるわけです。

 しかし、改めて後述もしますが、人文学徒さんがおっしゃる「地上の問題」を (部分的にせよ)適切に解決する上でこそ、弁証法的唯物論・史的唯物論に基づいて 「事物に即した」思考が不可欠なのではないでしょうか。ですから、その点はど うしても譲れない一線だと思います。
 それともう一つは、このような弁証法的唯物論哲学を核心的内容とする「科学的」 社会主義の標榜が、現実に宗教者を党に結集する阻害要因となっているのか どうかという点です。少なくとも現状では、「宗教を捨てなければ入党を認めない」 というような厳格な運用は一切なされていないのではありませんか?
 あるいは、「入党したいけれど、『科学的』社会主義の標榜がどうしても気にかか る」という理由から、入党を控えている人たちを、人文学徒さんがたくさん見てきた ということでしょうか。

 この点では、人文学徒さんがいわれるような「党改革」の必要性自体に疑問を禁じ えないわけです。

 それは、ロム3さんがかなり冷淡に反応されているように、「弁証法的唯物論哲学 が客観的真理の存在を認めているがゆえに、『党幹部独裁制』を導いた『民主集中制』 の淵源となっているのであるから、これを廃棄しなければならない」というところま で行き着く危険がある、いわば濡れ衣の論理ではないかと思うのです。

 問題は、現在の日本共産党が「科学的」という名の下に、実際は弁証法的唯物論か ら乖離した「宗教的」な「真理の押し付け」を、党員に対しても、周囲の民衆に対し ても(「国民に対する説教」!)行っている点にあるのではないでしょうか。ですか ら、ロム3さんがいわれるように、「個々の党員が本当に弁証法的唯物論を身に着け、 これを実践すること」こそ、対策として打ち出されるべき事柄ではないでしょうか。
 そして、それを妨げている原因は、党が例えば綱領や規約に「科学的社会主義」や 「弁証法的唯物論」を掲げること自体にではなく、その「真理」それ自体の客観 的相対性・歴史的被規定性に対する無知・無理解と、その「真理性」が「各人に即し て」実証される過程において、「その人自身の実践」が持つ意義の軽視にあるの ではないでしょうか。だからこそ、原仙作さんが痛撃されるように、「党の方針は正 しい、そのことは、党の実践によっても確かめられている、なのに国民はそのことを 理解できないでいる、だから国民に『党の正しさ』を大いに伝えなければならない」 という、「国民に対する挑戦」を平気で方針の力点に掲げることができるのではあり ませんか?

 もちろん、人文学徒さんも、さすがに弁証法的唯物論等に関する理論的研究の必要 性を一切否定するところまでは行けずに、

ただし、社会や人間に関わる研究をしないとか、そういう研究機関を持 たない ということではない。それはそれで大いにしたら良い。

と留保していらっしゃいます。

 しかし、ここでさらに矛盾は拡大するのです。
 というのは、現実の党活動方針を策定する指針としての意義を切断された「科 学的社会主義」の「理論研究」こそ、不破氏を始めとする現日本共産党中央が抱えて いる宿痾であったはずだからです。
 現実の社会における矛盾の存在形態とその根源、これを解決する現実的方策、それ を実行に移すべき主体に関連した敵味方の力関係と客観的情勢、これらすべてを、語 の本質的意義における科学的社会主義の見地から解明しなければ、そもそも党が成り 立たなくなるのではないでしょうか? このような実践と切り離された「理論研究」 に、一体どれほどの意味があるというのでしょう。それは、人文学徒さんが、最近 の2005/1/1付投稿でしきりに強調されている見地とも、背馳するのではありませんか?

 次に人文学徒さんは、右の見地をさらに発展(?)させて、

 社会主義概念自身を綱領に謳うか否かは難しいところだが、これには 従来の唯物論哲学がこびりついていることでもあるから、入れない方が良いと思う。 だから当然、党名も変える。よって、現党員全員対象の再加入手続きということにな る。

といわれています。これは、綱領というものの意義と性格に関する把握を問われるも のだと思います。

 というのは、「綱領に入れるかどうか」を決めるのは、次のような事情に関係する と思われるからです。

 即ち、私たちは、その概念を綱領に入れると否とを問わず、また、その内容が何で あるかに関する見解の如何を問わず、概ね「社会主義社会」の実現を目指して(活動 して)いることを前提に、ここで議論をしているのでしょう? 人文学徒さんのよう な現役の日本共産党員として、あるいは、私のような無党派の個人的社会主義者とし て、という違いはありつつも、です。

 この社会主義社会の実現というのは、何世代にもわたる人民自身による壮大な「事 業」だと、私は考えています。
 そして、人文学徒さんご自身が「党の改革案」といわれていることからも、この 「事業」を実現する上で、現行のような相当タイトなものか、それとももっと緩やか な「ネットワーク」的なものかは別として、「事業」遂行の中心部隊ないしセンター 機能を果たすべき「党」(いわゆる旧規約前文における「前衛部隊」--もちろん、 それは、人民の上に立ってあれこれ横柄に指図する存在であってはなりませんが…) が必要であると考えていることも、ほぼ前提としてよいでしょうね。

 この事業に、より多くの人民の主体的な参加を促し、人の力を結集するために は、その「事業の目的」と「事業の本質的な内容」と「事業の遂行方法」とが、人民 に明らかに示され、それをもとに人々を結集させる必要があると考えています。 これが、私が考える「綱領」の必要性と内容です。株式会社でさえ、根本規 則として事業目的と基本組織を定めた定款があるように、この点を度外視して、人を 募ることはできないと思います。
 ですから、最終的な「事業目的」を明らかに定めないで、「中期的な行動目標」だ けで人々を募るのは、結局その都度中期的な事業をしているだけで、「社会主義実現 の事業」をしているとは言えないと思います。逆に、社会主義社会の実現という目標 を捨てない限り、このようなやり方では、そのことを明示されないで「中期的事業」 に参加した人たちにとっては、一種の「詐欺」になってしまうと考えるのです。

 念のため繰返しますが、これは、綱領の立場を民衆に押し付けることとは、まった く違います。人文学徒さんが強調してやまない「実践」の契機、原仙作さんが常に念 頭に置かれているであろう「国民の政治的経験」こそが、綱領の国民的受容を保障す ると考えるからです。
 また、少し先走って言ってしまえば、綱領の内容(「社会主義」の本質的内容、そ れに至る道筋等々)にしても、万古不易のものではありえません。社会主義実現の事 業が、人間の何世代にもわたる長期的事業である以上、歴史的条件の変化や党・人民 自身の認識の深化に伴って移り変わることは、当然のことだからです。
 そのような限定をあらかじめ付しつつも、私が考える「綱領」には、「社会主義実 現の事業」自体の目的とその本質的内容、その実現に至る事業遂行方法が、簡潔・明 確な形で示されなければならない、と思います。

 もはや蛇足だとは思いますが、ここまで述べてきたことは、お答え(その1)で述 べた私の(4)の観点と切り離せないと考えています。
 くどいようですが、ぜひみなさんにも紹介したいので、吉野源三郎『同時代のこと』 (岩波新書青版861)から、吉野さんご自身が「言い切っている」と私が申し上げて 引用した文の直後の文章を、再度引用させて下さい。

ホー・チミンに決定的な影響を与えたレーニンその人についても、夫人 のクループスカヤは、彼の棺側でこう語っている--
 「……みなさん、この数 日、ウラヂミール・イリィッチの柩の側にいて、私は彼の全生涯を想いかえしていま した。それで、次のことを、ここでみなさんに申しあげようと思います。彼の心臓は、 労働するあらゆる人々、抑圧されているあらゆる人々への熱い愛情で鼓動していまし た。彼自身はそのことを一度も口に出しませんでした。私も、ほかの機会でしたら、 これほど厳粛な機会でなかったら、申しあげなかったでしょう。私がそのことを申し あげるのは、彼がこの感情を、ロシアの英雄的な革命運動から受けついでいたからで す。この感情が彼を促して、最大の熱情をもって問題の答えを求めさせました。労働 する人々の解放は、どんな道を通って達成されるのか。この問いに対する答えを、彼 はマルクスから得ました。彼は、書物の虫としてマルクスに近づいたのではありませ ん。彼は、捨てておけない、苦悩に満ちた疑問に対する答えを求める一人の人 間として、マルクスの許へいったのです。そして、マルクスのところでこの答えを見つけました。それを携えて、彼は労働 者の前にあらわれたのです。……」
 ここに語られているのは、マルクス主義者になる前のレーニンである。 またマルクス主義を受け入れる前にレーニンの魂の中で形成されていた「苦悩に満ち た」問題である。 (強調は同書では傍点。同書pp226~227)

 死んでから、伴侶にこう言ってもらえる人物は幸せだなーと、私などは感じ入った ものです。
 それはさておき、私には、クルプスカヤ・吉野源三郎が指摘しているこの関係が、 現代では失われているとは考えられません。
 したがって、私たちが現に嘗めている諸苦悩の現象形態が、彼らの時代と様相を異 にしている部分があるとしても、その諸苦悩の根本的解決という「問い」を解明する のは、マルクスによって確立された「科学的社会主義」、その核心部分をなす「弁証 法的唯物論」「史的唯物論」(これを、「弁証法的・史的唯物論」と呼ぼうが呼ぶま いが)であり、また「マルクス(主義)経済学」であり、「社会主義理論」であった はずではないか、ということです(もちろん、死んだ教条ではなく)。少なくとも、 「社会主義」実現の事業を展望するにあたって、この 点は曖昧にはできないと、私には思われるわけです。

 そして、「マルクス主義者になる前の」「マルクス主義を受け入れる前にレーニン の魂の中で形成されていた」「苦悩に満ちた問題」とまったく同じように、現代の日 本社会でわれわれ自身が嘗めている「苦悩」の根源は何か、それは「どのような道を 通って根本的に解決されるのか」を、現代日本社会に即して解明した文章こそが、 「党綱領」であるべきだと思うのです。それは、決して、単なる社会主義実現の 事務的な「事業計画書」であってはならないと、強く思うのです。

 人文学徒さんが2004/6/18付浜吉さん宛投稿で言われていた「人々の気分というも のの重要さ」についても、それを根底で支えている実体を見失ってはならないと、強 く思うものです。

 私は、大学で「落ちこぼれて」しまったために、本田さんのように大企業の現場と いうものを知りません。かといって、浜吉さんの感覚に同化することも実際上できま せん。
 この6日(木)から、日刊「赤旗」の国民運動面に「疲弊する職場~NECは今」とい う連載がされており、また11日(火)付3面にはクラボウの思想差別の特集が出ていま す。「共産党をやめたら研究職に就かせる」と言われ続けて、閑職に回され続けた労 働者は、61歳です。「いろいろな資格を取得し、語学にも挑戦して、趣味の昆虫に関 する論文は100本以上に及ぶ」というこの人は、笑ってそう語っているそうですが、 資本の残酷さに怒りを禁じえません。これに答える「綱領」が、この「問題の根本的 解決の道筋」を科学的に正確に示していればこそ、「自分だけの問題ではない」と33 年以上組合の一党支持締め付けを糾弾する立場を変えなかった別の56歳の労働者の人 生にも答えることができるのだと思うのです。何も「綱領」に限ったことではありま せん。「中期的な方針」についても、それが「科学的社会主義」に基づいていたり、 「難し」かったりしているために、現に国民に受け入れられないというのは、事実誤 認だと思います。方針が科学的に鍛え上げられていないから、ばかばかしくて民衆の 「心に響かない」方針が科学的に鍛え上げられていないから、ばかばかしくて民衆の「心に響かな い」のではないでしょうか。
 この点では、「わが国の労働者の精神的な天賦 や教養の水準を過小評価してはならない」と戒めた、エンゲルス「エルフルト綱領草 案批判」の指摘(全集第22巻p235)に充分留意する必要があると思います。
 科学的に正確な綱領と方針を示すことが、逆に「広範な国民の結集の障害になる」 と考えるのは、率直に言って誤り以外の何ものでもないと思います。もちろん、縄張 り主義・セクト主義や教条主義が、科学的でないことは言うまでもありません。

 ちなみに、上記引用のクルプスカヤの言葉で、「書物の虫としてマルクスに近づい たのではありません」と言っているところは、偶然ですが、不破氏らにドンピシャの 感じがします。
 (その1)でもちょっと触れましたが、私たちの世代内でも「指導的幹部」候補生 の共通する特徴は、やはり「知力がある」ということでした。しかし、彼(彼女)ら の頑張りを支えていたのは、「君たち一般人は知らないだろうが、社会主義革命は歴 史の必然なんだよ。僕たちはそれをよく知っているんだ。エヘン。」というような、 「知的な思い上がり」だったのではないかと、後になって気づいたのです。この人た ちのどれほどが、「苦悩に満ちた疑問の答え」を切実に求めていたのか、私にはそれ こそ疑問なのです。
 自分の頭で苦しみながら考え抜けないことも?こに根源があると感じています。 こういう人たちが、立派な大人になってから「人の心に訴え、人を動かすことができ る」言葉を吐けないのは、理の当然という気がしています。

 なお、ここまで来て(その3)を書く決断をしたので、付け足しのようで済みませ んが、「革命は権力の問題か、構造の問題か」というロム3さんの問いかけについて、 私見を述べさせて下さい。

 この点については、「権力の問題でもあり、構造の問題でもある」というのが私の 立場です。「八方美人だ!」と非難されそうですが、社会構成体の構造(本質)を根 本から変えるのが社会主義実現の事業(=革命)の目的ですが、そのためには、その 事業主体が権力を掌握し、これを利用しながら変革を進める必要がある、ということ です。もしも、この事業の「完成」を何を以て測るか、という問いになれば、それは 決して「権力」の問題ではありえません。社会構成体の「構造」の問題であることは 明白です。しかし、だからといって、「革命は権力の問題ではない」ということにな るかといえば、それは違うということです。
 この過程は、以前のどの社会構成体の変革においても同じであったと言えると考え ています。ただ、事業主体が最初から充分自覚的に意識していたかどうかが、素朴な 時代とは決定的に異なっているだけだと思います。(以上「その3・完」に続く)