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とおりすがりN様

2005/01/13 阿Q 50代 自営業

 N様:力の入った反論をいただき、有難うございます。

 私は受験勉強を否定していません(私の投稿の中にそんなことがかかれていますか? )。私はこの30年ほどの間に次々と行われた入試改革は、すべて悪い方にばかり進 んだと思っていますが、それは私が simple is best.と考えているからで、どんどん システムを複雑化することにより、好きなことを一所懸命勉強するよりも「物理より 生物の方が点を取り易い」などとうまく立ち回る方が重要と思わせたことは、大きな 罪だと思っています。

 私の頃は、実に単純でした。基礎的なことは全て身につけなければならず、要は勉 強するかしないか、それで決まったのですから、幸せでした(能力も無く勉強もせず に落ちこぼれた私はふしあわせだけど、それでもありがたい時代だったと思っていま す)。それに比べて、受験産業に頼ってテクニックを磨くことを強いられた若い世代 に、私は同情しているのです。受験そのものは一向に問題ありません。

 「多くを覚える必要がある」とは、とんでもない時代遅れの考えですね。私自身、 携帯電話を持たないなど、時代遅れの人間だから、時代遅れを悪く言いたくないけど、 「歩く百科事典」みたいな人間がいかに現実の問題を解決する上で役に立たないかと いうことを散々思い知らされてきた今、知識の量を重視するとは、信じられません。

 英和辞典を全部丸暗記したら、英語が使えるようになりますか?とんでもない話で す。私にとって、高校生達が使う学習英和辞典クラスのものは全く役に立ちません。 そこに出ていることはほとんど知っているからです。しかし実際に英語の論文や新聞 記事を見ると、普通の人間が使う英単語は全て知っているつもりの私が知らない言葉 がそろぞろ出てきます。それではそれらを新たに覚えればいいかというと、そうでは ない。

 最大の研究社大英和やランダムハウスを引けばたいてい出ているけど、その文章で どういう意味で使われているのかは、辞書は説明してないので、自分で考えなければ なりません。それを理解するには、英和だけではだめ。英英辞典やシソーラスなど、 他のレファレンスが必要です。私の「詰め込み」批判の1つは、単語を暗記させなが ら、辞書の使い方を教えていないことです。大事なのは知識の量じゃない。学ぶ方法 を身に付けさせていないことが問題なのです。

 私が実験について言ったのは、「誰がやっても同じ」とういことじゃないんですよ。 その結果が出ることが初めからわかっている、ということです。そういうのは実験じゃ なくて、デモというんです。実験というのは、何を確かめたいか、という目的が先ず あって、それを調べるにはこれこれの条件でこうしたとき、Aという結果が出れば最 初の想定が確認されたことになる。そういう仮説と、それを確かめるための条件設定 を行って、その結果が予想通りなら仮説が証明された、NOなら最初から理論を見直す。 そういう作業だということ。

 このように処理すれば問題のものが抽出される、と最初から分かっていることをや るのは、デモンストレーションというのです。問題は、DNAが4種類のアミノ基の組 み合わせによって遺伝情報を表現するということであり、それはデモで紐状の物質を 取り出してもわからない、ということです。

 そんなことをするくらいなら、0,1,2,3という4種類の数字からなる4進数 を考えて、1203、1302、などの24種類の組み合わせでどれだけの情報を表 現できるかと生徒に考えさせる方が、有意義な実験と言えるでしょう。

 私が30年程前に総合教育みたいなものを考えて提案したのはそういう趣旨でした (提案といっても、当時就学前だった甥達のために姉に書き送った手紙やボツになっ た雑誌への投稿に書いただけですが)。つまり学科横断的な問題を提示して、全ての 学科の知識を総動員して、「おべんきょう」よりも現実的な問題を解決する力を育て る、という趣旨です。

 数年前に文部省が「総合教育」を言い出した時には、やっと役人もわかったか、と 思ったのですが、実際に出てきたのはどれもこれも「環境」「地域」など流行のテー マを取り上げるだけで、それで何をするかは右往左往。生徒任せで教師の指導性はゼ ロ、という情けないものも多くあります。それは無理も無いのです。教育行政が教師 の自主性を散々押さえつけて、教育委員会の言いなりでなければ出世できないという 状態を作り出してきたのですから、今更「教師の自主性と力量が問われる」などといっ たところで、そんなものは役人達がとっくに殺してきたのですよ。

 30年前に私が提案した総合教育が具体的にどのようなものだったかをお知りにな りたければ説明しますが、そんなものに興味は無いでしょう。

 私は理科教育のひどさを特に強く批判してきましたが、一番心配してきたのは、実 は日本語教育です。これは考えるための根本条件です。それを日本の教育はいかにお ろそかにしてきたか。知識の量を問題にしたために、その知識を必要に応じて獲得 (調査)することも、知識(情報)を分析して判断することも出来ない人間を製造し てきたのです。そんなことをしてきて、今になって若者達の判断力や常識のなさを嘆 くのは、最悪の偽善、無責任です。