人文学徒さんの呼びかけへの最後の投稿です(やれやれ。長くて済みません)。今回は、項目もくじを付けます。
《もくじ》
1.前回補足-綱領に記すべき「社会主義」の本質的内容
2.党の組織形態
3.民主集中制の改革
4.党の教育機関と後継者養成
5.余談
1.補足~私見で「社会主義」を綱領に明記すべきだとした場合の内容
綱領で事業目的として示されるべき社会主義社会の本質的内容については、「生産手段の社会的(共同)所有」を特徴とし、その所有主体については生産手段の性質に応じた形態の選択により「国家・地域団体・生産単位など」として、必ずしも限定しないこと、その所有権能の行使は、生産手段の性質や所有主体に応じたふさわしい形での人民による民主主義的支配管理として行われるべきこと、現状では「市場経済の特長をも活かした」生産の効率化と社会的規模での計画的生産調整を図るべきこと、などが入れられるべきではないかと考えています。
そして、国家は可能な限り分権的構造をとること、代表民主制をとる場合でも、国家・地方・生産単位毎の各機関については(司法機関を含め)人民による民主的選挙と罷免権を保障し、意思決定には可能な限り直接民主主義を保障すること、その前提である個人の基本的人権と平等の保障は徹底される必要があることも、「エセ社会主義体制70年余の歴史的経験によれば、これらがなければ、そもそも生産手段の社会的所有を全うできない、社会主義の本質的要素」として掲げられるべきだと考えています。社会的生活/生産基盤の整備や社会保障の充実のためには、相当規模の中央機構が必要なことは否めませんが、生産手段の支配機構が、直接の生産者から遠く距離を置けば置くほど、権力の集中によって社会的所有の形骸化が起きる危険が高まるとも言えるからです。
これらはもちろん、まったくの試論に過ぎません。
なお、「道筋」としては一国社会主義の可能性を前提とすれば、一国革命論としては二つの敵に対する民主主義革命を通じて連続的に社会主義革命へという理論が正しいと思います。
しかし、グローバリゼーション(=主権国家の枠組を超えた資本の多国籍化の極致にある無国籍化、これに伴う商品・資本・信用移動の極度の無規制化、各主権国家に対して国際資本が行う自己保全制度の平準化欲求の激化等々)の進展の下で、日本のような国における一国革命の自律性・自己完結性がどのような影響を被るか、私にはほとんど解りません。
いわゆる「中期的行動目標」としては、人文学徒さんがいわれる課題にほぼ賛成ですが、
>ここに、階級闘争的考え方、労働者「寄り」などの感じは無理に付与する必要はないと考える。関連して、「資本家をばら色には描かない」を過大に扱うことも止めよう
という点については、賛成できません。
確かに、例えば「サービス残業」等の労働問題をとって考えると、わが国の個別資本の代理人経営者の中には、「サービス残業の徹底的一掃」に個人的に賛成し、「公正な労働分配こそ、国際的なコンプライアンスの観点からも企業の競争力を本質的に高める」と確信している「良心的な」人もいるだろうと思います。
しかし、第一に、本源的蓄積の時期に、成熟した外国資本と闘わなければならなかった日本のような後発資本主義には、総体として、このような体質的な余裕が傾向的にないのではありませんか?
第二に、仮に地力に余裕があっても、総資本は、自発的にコンプライアンスを確保する内在的動機を持っていません。それは常に危ういものです。「利潤=資本の自己増殖の追求」という「『存在』が意識を規定している」からです。
第三に、したがって、このような労働保護法制の貫徹一つをとっても、労働者の階級的な闘いが弱ければ、ジリジリと、場合によっては大幅な後退を余儀なくされてしまいます。
「規制緩和の偉大な実験国」ともてはやされたニュージーランドの1991年雇用契約法は、いわゆる集団的労働関係の中での雇用契約を原則として事実上禁止し、全国的職業別労働組合がある同国において、「個人は会社と直接交渉で雇用条件を決めなければならない」(同法9条)と定めて、労働組合が個々の労働者の代理人となって集団交渉により会社と労働条件を決めるためには、委任状を始め600もの書類を整え、しかも会社側の承認を要するとしたそうです(内橋克人『不安社会を生きる』2002年6月刊・文春文庫版pp128~129)。
これはあたかも、「雇用契約は会社と労働者個人との間の個別的契約取引であり、これに圧力をかけるのは、独占禁止法違反だ」とでもいうような、荒唐無稽でありながら、形式論理だけは整っている、労働法の否定に匹敵する法制度です。その論理の特徴は、どこぞの首相にそっくりです。
翻ってわが国でも、毎日の「赤旗」を見るまでもなく、例えば解雇法制に関しては、島本慈子『ルポ 解雇-この国でいま起きていること-』(2003年10月刊・岩波新書新赤版859)にあるように、異常事態です。勇ましく赤旗を振ってシュプレヒコールなどしなくても、その形態はどうであれ、いまほど労働者階級の団結した階級闘争=自己防衛闘争が必要とされるときはありません。ですから、人文学徒さんのご認識には到底賛成できないのです。「闘わなければ殺される」のではありませんか?
闘わなければ殺される、という状況は、人文学徒さんがいわれる「反戦平和、原水爆禁止、地球環境問題、発展途上国への国際的支援、国連の民主化など」の国際課題に関しても同じだと思います。これに「人権の国際的保障」の課題を付け加えてほしいとは思いますが。というのは、単にこれが国連憲章の目的にあるからというより、この課題についても、国際資本が自己の強欲な利益追求を正当化するための「美しい理由」に使っているからです。
グローバリゼーションは、地球=世界規模で、搾取と貧困、環境汚染、貧富の差の拡大と固定化(いわゆる二極化)、総資本による国家機関の露骨な下請機関化とそのための抑圧を拡散させたと思っています。その凄まじさは、例えば、ケンブリッジ大学教授のノリーナ・ハーツ著・鈴木淑美訳『巨大企業が民主主義を滅ぼす』(原題:THE SILENT TAKEOVER 2003年8月日本語版・早川書房刊)を見ると、空恐ろしいほどです。経団連の「政党通信簿」も、その一つの現われと言えるでしょう。
憲法学の人権論を学ぶとき、日本共産党が「基本的人権」保障の「先進的内容」として強調する「社会権」保障に至る歴史的背景について、よく次のようにいわれます(ちなみに、『世界の流れのなかで憲法問題を考える』を読む限り、不破哲三氏が人権宣言の歴史を学生レベルにおいてでさえ十分に咀嚼しているとは思えませんが……)。
>自由(夜警)国家観に基づいて自由放任政策がとられ、形式的自由と機会の均等という平等のもとに自由競争が促進され資本主義が高度化した結果、富の偏在が起こり、労働条件は劣悪化し、独占的グループが登場した。こうして、社会的・経済的弱者にとって「自由」が貧乏の自由・空腹の自由でしかなくなった。そこでこの状況を克服し、人間の自由と生存を確保するために、近代市民革命当初は「不可侵」とされた経済的自由権・財産権に対する社会的拘束と、いわゆる社会権の保障とが認められるようになった、と。*
この背景状況を一国でなくまさに地球規模で再現し、切実な課題とさせているのが、現実のグローバリゼーションだと思います。一国内での、あるいは各諸主権国家での、普通選挙制獲得と結合した人民の闘いが、20世紀の「社会国家」における経済的自由権に対する社会的規制と社会権保障を実現させたように、世界規模での「経済的自由・財産権に対する社会的拘束と社会権保障」が、地球規模で連帯した人民の運動として実現されなければならない時代が、現代ではないでしょうか。
「国連の民主化とともに、これを中心とした多国間協力による新国際経済秩序の確立、人権の国際的保障、飢餓貧困と差別抑圧の解消、地球環境の保護」が一国内の革命運動の綱領的課題となるのも、まさにここに根拠があるのだと思うのです。古くはチャーティスト運動に始まるこの民主主義運動を世界規模で拡げることは、一つの重要な「闘い」です。そしてその中心部隊となるのは、やはり労働者階級と貧農ではないでしょうか。
*腰を折るようですが、この理論は、私の理解では、「一面的な真理」でしかないと思っています。というのは、「自由・平等・友愛」を掲げた近代市民革命当初から、プロレタリアートにとっては、その「自由」は、貧困の自由・失業の自由・空腹の自由でしかなかったのであり、「資本主義の高度化」によって初めてそうなったのではないからです。ただ、労働者階級が、19世紀後半以降、ちょうど「資本主義の高度化=独占資本の出現・跳梁」と歩調を合わせるようにして階級的政治闘争を発展させたがゆえに、憲法上「社会権保障」の課題が登場したように見えるだけです。しかし、その点はいまは無視しています。
2.党の組織形態~イメージは「ネットワーク型センター」
人文学徒さんがイメージされている「党」の組織形態は、ひと言で言い表せば、「ネットワーク型センター」と言えるのではないでしょうか。
つまり、「ネットワーク」であることは、各ブランチが独自性と自主性を保って、何らかの運動体として自立していながら、同時に、横の連繋を自発的・自覚的に取り合っているということでしょう。これが広範な人に具体的にイメージできるようになったのは、NGO活動の世界的規模での発展と、インターネットの普及によるところが大きいと思います。
また、「センター」であるということは、各ブランチが自己の運動の限界と(自己の運動を発展させるためにも)他の運動との関連性・統一行動の必要性を自覚しており、自発的・自覚的に、他の運動との統一行動を追求して、一定の連絡調整機能と指令機能をより階層的に上位の・ある組織に委ねている、ということを意味するでしょう。またその委ね方は、通常、多数決原理に従ったものになるでしょう。
一般的に拒否権を認めるか(その場合、結局「全員一致制」に等しくなる。ただ、拒否権不行使者に対しては決議の拘束力が発生する点が違う。拒否権許容の対象事項を列挙型にすれば、中間的な解決が可能)どうかによって、その拘束力がかなり違ってくると思います。
人文学徒さんが否定される「上級機関決定の無条件実行」についても、このような緩やかな横のネットワークを基礎とした「連絡調整・指令機能」であれば、本来は受け手側の自発性を度外視して成り立たないはずですから、人文学徒さんの上記立場と矛盾はしないでしょう。
私が現状で大まかに考えるのも、このような緩やかな党組織です。それを支えている認識は、一つには、各運動課題は、社会関係の複雑化・問題の専門化によって、むしろそれぞれの運動自体の自律性を最大限尊重しながら調整を図る方法こそ、党中央の能力から見ても各課題を推進する上で適切となっている、二つには、1970年代頃までのように、党中央が全分野の大衆運動を部門別に掌握して集権的に「指導する」というやり方は、前記複雑化・専門化に伴い党機構の官僚化・巨大化を必然的に促進し、「党による引き回し」をも招来して却って運動を衰弱させる危険がある、三つには、各地域的課題についても、分野に応じた横の連繋(阪神・淡路大震災の教訓を新潟中越大震災で活かすというように)がますます必要になっており、分権的な指導こそが望ましい、というものです。
ただ、人文学徒さんと私との大事な・決定的な違いは、このような党組織が「何のために存在するか」という点です。党の組織形態や組織原則というものは、党が何を事業目的とし、それをいかなる経路を通って遂行するのかを前提として、「そのために必要な組織はどういうものか」という見地から検討されるべきものだと考えるからです。
この点、人文学徒さんの論旨では、あくまで幾つかの「中期的行動目標」の実現を目的とし、各種個別生活要求団体との関係では「勝手連」としての機能を果たすものになるはずですが、実はその組織化の過程を、私は具体的にイメージできていません。それは、既存の党組織の改編という形としてのみ、辛うじてできるかも知れないという気はしますが、仮に別の「新党」を立ち上げるとした場合、直ちに訳の分らない存在になるのではないかと感じています。
というのは、もし新党立ち上げの形を取るとすれば、党員となるべき人たちは、まず最も自分が関心を持つ「各生活要求団体」にじかに参加してしまい、党に参加することはないでしょう。ある生活要求を実現するのに、これを直接の目的とする団体ではなく、そういう団体を「『勝手連』的に応援する団体」を作るというのは、馬鹿げているからです。
ということは、人文学徒さんの改革案は、決して「新党結成」というルートでの実現を考えていない、ということになるのでしょうか。あるいは、一旦党を解党して、各旧党員が何れかの生活要求団体に所属し、その中で活動しながら、解党時の申し合せに基づいて団体構成員に「党」の必要性を認識させていき、その結果として「フォーラム」のような形で新たな党が組織される、ということでしょうか。
人文学徒さんが、「現党員全員対象の再加入手続きということになる」とおっしゃっているのは、そこまで見越してのことだったのでしょうか。
また、「国会議員政党というあり方と対極的になる護民官組織」であり、「大小の成果を上げることで国民、世界から評価してもら」う団体とは、いわゆる大衆団体と、どこが違っているのでしょうか。
人文学徒さんの党組織のイメージからは、政治権力を獲得する問題がスッポリと抜け落ちているように感じるのですが、それは、政治権力獲得や参加を目指す運動を行わなくても、これらの「中期的行動目標」が実現できるとお考えだからなのでしょうか。よく分りません。
この点では例えば、前掲書でノリーナ・ハーツ教授が、個別課題に関する抗議行動を行う圧力団体(「援助組織」型でない個別NGOをイメージすればよいでしょう)について、次のように限界を指摘し、政治過程における真の民主主義の復権を訴え、その大まかな政治的プログラムまで示していることに、充分留意する必要があると思います。
> 市民社会において大きな役割を果たすさまざまな圧力団体は、たしかに人々の擁護者として立ち上がったが、民主的に権限が委託されたわけではなく、メンバーあるいはリーダーの考える優先事項にばかり目が行き、他人の事情はお構いなしに自らの価値観を押しつけようとしがちだ。(前掲書p255)
>抗議が組織化されると、最も激しい意見をもつ人たち、最も大声で話す人たち、最も組織になじむ人たちにだけ、政治家やCEOが応じるような政治制度になりかねない。(同p256)
3.民主集中制の改革について
もともと、このサイトに投稿される多くの方が一番問題を感じているのが、この民主集中制でしょう。さつきさんの2004/9/28付投稿で詳細な分析がなされたので(これは、さつきさんの偉大な貢献だと思っています。某ブログだけでなく、早くここにも復帰してほしいです)、問題点は浮彫りになっていると思います。
ここで解決しなければならないのは、(1) 現在のような事実上の「党幹部独裁制」をあらかじめ排除できる意思決定制度・行動準則はどういうものか、(2) 仮に、党が政治権力の獲得を利用して(ブルジョア民主主義の徹底を通じて、さらに)社会主義社会の実現を目指すという「事業遂行方法」に基づくとした場合、その「党としての行動の統一」をどのようにして図るかを、同時に解決するあり方でしょう。
(2) の問題については、すでに前項で触れた、「多数決原理に一定の拒否権(私は、全面的拒否権は適切でないと思っています)の許容を加味した『ネットワーク・センター型』の組織形態によって、各ブランチの自主性・自律性を尊重しながら行動の統一を図る」というくらいしか、私にも意見がありません。現党中央は、結局「上意下達型」の組織に凭れかかっているため、「下級機関を実質的に説得する」ことに苦心をせず、自分の理論的力量に自己陶酔しがちだという認識に基づいています。拒否権を持つ組織を説得するということは、商品の販売と同じように大変なことです。これをやらせればよいのだと思うのです。
「行動の統一」を図ることは、支配階級が政治権力を握っている階級社会を根本的に変革するという「事業の基本的性格」を自覚する以上、曖昧にはできない基本方針だと思いますが、その「統一」を始めから実質化するように、組織原則上で工夫をするということです。
(1) の問題については、人文学徒さんはそもそも「党綱領から『科学的社会主義』『社会主義』『真理の党』の規定を外す」等の方策を提案しておられると思いますが、私は、次のような方法を考えています。
[1] 各方針討議にあたっては個別的に、それ以外にも常時「自由」に、全党的討議の場を、「赤旗」別刷り党活版紙上や党中央ホームページ上他で保障する。物理的限界に関しては、少数意見の事実上の排除にならぬよう、逆傾斜配分を行い、場合により配分比を明示する。
党員間の「横断的討論」は禁止しない。但し、方針に直接関わらない個人的事項や組織的事項に関して、公開討論の場に持ち出すことは、原則として禁止する。
これとは別に、党中央委員会・各級委員会に対する「質問・回答請求・提案」権を、すべての党員に保障する。
[2] 各党機関の選挙制度を次のようにする。
a.「機関推薦制」を禁止し、立候補の自由(推薦の自由を含む)を確保する。
b.名簿に対する一括信任投票を禁止し、機関定数を定め、定数分の複数投票権を各党員・代議員に与え、単純多数連記投票制にする。実際上は、全立候補者名が記載された投票用紙の所定欄に、○を記入する方法で投票する。したがって、一人の候補者に対して一人の投票人が定数分いっぱいの投票を行うことはできない(累積投票は排斥する)。棄権は自由である(20の定数に対して30人の立候補者を記載した投票用紙に10個しか○を付けないこと等)。
c.特定の個人の被選出機関への再任については、当選要件を加重し、比較多数ではなく、有効投票の過半数とする。
d.党中央委員、中央監査委員(後述)、中央党学校委員(後述)については、一定党歴(例:1年以上)を有する全党員による直接選挙を行い、常務を決するのは、中央委員選挙の有権者によって党中央委員の中から直接に選出される中央常任委員とし、その事務局である書記局員は党中央委員であることを在任要件とする。中央常任委員会と書記局は、中央委員会の「上級」「指導」機関ではなく、その「下部組織」の地位をもつものとする。
e.各級機関は、同級・下級機関に在籍する被選出委員を罷免することはできない、但し、各選出母体に対して、罷免の提案権を有するものとする。中央監査委員は、個人で、いかなる機関に属する被選出委員についても罷免提案をすることができるものとする。
f.各選出母体に属する党員(党中央委員・中央常任委員・中央監査委員・党学校委員の場合は一定党歴以上の全党員)は、一定数の一致した意見により、特定の党機関個人の罷免投票を提案することができるものとする。その投票権は、罷免対象者が代議員の投票によって選出された場合でも、当該党組織に所属する全党員(中央委員等の場合でも、党歴は問わない)が有するものとする。
g.党中央委員・中央監査委員・党学校委員は、兼任を禁止する。
[3] 都道府県党組織以上の各級党会議の決議案は、一定期間以上前に当該組織に属する全党員に公開されるべきものとする。
[4] 党中央委員会とは別に、選挙された中央監査委員で組織される党中央監査委員会を設置し、機関からの罷免の可否に関する訴え、除名等の処分の審査、党活動全般に関する苦情処理の権限を行使させる。罷免提訴・除名処分提訴があった個別党員について、党員権停止の臨時措置を採る権限を有する。
[5] 党中央委員会とは別に、選挙された党学校委員で組織される中央党学校を設置し、党員の教育、理論問題の個別的・集中的研究、党学校の運営にあたらせる。テキストは、原案の事前公開をもとに、適切な方法で意見を全党員から集約・反映するとともに、一定サイクルで採択投票を行うものとする。
4.「党学校もやめる」ことについて~世代継承の保障の必要性
人文学徒さんは、おそらく現行の党の教育制度が、「党幹部独裁制」を補完する「思想統制教育」機関と成り果てている実情を憂慮され、「党学校なども同じく不必要」だとされているのでしょう。そのお気持ちは、よく分ります。私も、『基本過程』をテキストにして講師をやっていた口ですから…。
しかし、党の事業目的を、社会主義社会の実現という人間の何世代にもわたる長期的事業と定めた場合、事業後継者の養成は、非常に深刻かつ不可避の課題になります。「現場で先輩の技を黙って盗め!」などという江戸時代の職人芸のようなことは、許されないと思うのです。
もちろん、人文学徒さんが2004/6/18付投稿でおっしゃっていたように、「教育でなく実践で大小の成果を挙げて初めて人が育つ」ということは、本当でしょう。それは、主として「理論が『人に即して』その真理性を実証する」ことを強調されているのだと思います。
しかし、それはやはり一面でしかないとも思うのです。
各ブランチの自主性・自律性を尊重しながら、個々の党員がその活動の中で「成果を挙げた結果成長する」ためには、「人に即して真理性が実証されるべき理論的立場」が、ある程度意識されている必要もあるのではないでしょうか。そして、そのような、理論と実践の総括とのいわば相互作用を通じて、人が本当の革命家として成長するのであれば、その理論教育の体系化の必要性を否定してはならないと考えます。
問題は、それが「党幹部独裁制維持のための思想統制機関」に成り下がらないためには、どう工夫すべきかということだけではないでしょうか。私が前項で試論を提示した「党学校委員の公選制と兼任禁止、教育テキストの原案公開と採択投票制」も、その工夫の一つのつもりです。
孫文の「五権分立」(立法・司法・行政・監察・考試)にもあるように、あるいは、欧米の独立行政委員会にもあるように、党内権力機関から相対的に独立した地位を保障し、しかもその職務遂行に対する党員からの民主的統制を機能させれば、後継者養成の課題に「思想統制機関に堕する」危険を回避しつつ応えることができると思ったわけです。
5.余談
やっと試論に関する考察が終りました。年明けから仕事上のトラブルに見舞われ、暇を見てはネットへのアクセスもろくにしないで、ひたすら(その2・中)(その3・完)を書き続けたので、参照投稿は1月5日あたりで止まったまま、書いてしまいました。その点はご容赦下さい。
この間、人文学徒さん以外にも、paulさんから私の(その1)に関連して投稿がありました。千田善氏、私も知っています。私は、卒業前後に健康を害して在学期間が長かったため、彼のことは耳にした記憶があります。もっとも、具体的に知ったのは彼の『ユーゴ紛争 多民族・モザイク国家の悲劇』(講談社現代新書1168・1993年10月刊)が初めてですが……。あなたの投稿を拝見して、「(世代が)つながった」という実感を持ち、嬉しくなりました。
今井伸英氏ですか。彼は吉村金之助民青中央常任委員長の前の、たしか最近亡くなった土屋善夫書記長時代の、これを「指導」していた党中央青年学生部員ではなかったかと思います。川上徹氏よりも上の世代だったのではないか(?)と、おぼろげに記憶しています。
千田善氏を立てた「楽しさ」を重視した自治会選挙活動が「シンヒヨみたいだ」とは、多分「青年の中にある未定形のどろどろした要求に形を与える」といって、「踊ってマルクス、歌ってレーニン」と悪口を言われていたこととの類似性を、党中央が感じてのことかも知れません。
けれども、私の感じでは前提状況が全然違っている。「新日和見主義」世代の指導が対象としていた人々は、まだ日本全体の「貧しさ」の実感が幽かにでも身体の中に痕跡を刻んでいた青年たちでした。方向性や形態はともかく、彼らにとって「闘う理由」は明確だったと思います。
しかし、ちょうど私たちの世代を境目にして、生まれたときからテレビがあり、自我に目覚めたときから新幹線が走り、進学教室に小学校時代から通うのが当然になっていた世代は、表面的には「豊か」になった生活の中で、偏差値教育で人間の尊厳を傷つけられ続けていたのに、「闘う理由」を探しあぐね始めてもいたのだと思います。
だから、その段階・時点での「楽しさ」とは何かをよく分析し、「生得の民主主義の子」らが内部に抱えている虚無感をしっかりと受け止めた政治指導こそ、「シンヒヨみたいだ」という無意味なレッテル貼りよりも百万倍も必要とされていたと感じました。paulさんのほんの少し前までの学生党活動スタイルとこれに対する指導が「タブー」視されていた感じだったというのは、「やはり14大会5中総で『臭いものにフタ』式の総括をしたため、正面から教訓を継承できなかったのだな」と納得です。「現勢の少なさに驚いた」というのは、私も初耳ですが、そんなに急激に減ったのでしょうか。私たちの世代では、例えば、京都の立命館大学は、大学だけで地区委員会をもっていましたからね。市田忠義書記局長は、そこの2部の出身だったと思います。
とにかく、私も50の大台を超えてから、やたらと涙もろくなったり、頑張りが利かなくなったり、「年を取った」と実感させられることが続いています。多少練られ方が不足していても、40代の方たちこそが、もっとも総合的かつ精力的に運動を推進できると感じています。ですから、希望としては、paulさん・本田さん・愚等虫さん・さつきさん・草の根のひとりさん・山本進弁護士さんらに本当に地道に頑張っていただきたいと、切望しているのです。勝手なことを言って済みません。
最後に人文学徒さん、党員でもない若輩者があれこれと非難がましい発言をした失礼を、どうぞお許し下さい。そして、失礼ついでに言わせて下さい。
>もちろん共産党以外に日本全体を良くできる可能性があるような政党、全国的団体は他にないと、これは今でもそう思っています(2004/6/18付人文学徒さんの投稿)。
日本共産党は、過去にたくさんの誤りを犯しているでしょうが、そのどれもが「公然と清算しない限り前に進めない」性質のものだとは限らないのではありませんか? どうか、草の根のひとりさんがおっしゃるように、原水協の吉田嘉清氏解任問題の公然たる清算を党の再出発の「条件にする『総括し、謝罪しないから参加しない、一緒にやらない』という立場には立ちません」という意見に、もう一度、耳を傾けていただけませんか。
こんな長文を、がまん強く最後まで読んで下さったみなさんに、心より感謝いたします。