「ゆとり教育」なるものが、受験一辺倒教育に対する国民の批判に折れてきた政府の回答、などと理解する人がいるとは、ビックリ仰天です。日本の官僚の独善と無反省を全く知らない甘い人なのでしょうか、それともその官僚のお仲間なのでしょうか?
私は30数年間、詰め込み教育を批判してきましたが、学校関係者からも、また新聞に投書しても無視されてきました。10年前、息子の高校のつめこみに抗議して、教務主任に出した長文の手紙にも、「生徒の9割以上が大学に受験する現状では、致し方ないこととご理解ください」と、全く理由にならない返事がきました。
私が指摘したのは、全地球規模の生産拠点の移動が行われている時に、北関東や新潟のマイナーな工業地帯の特産物などという、いつ消滅するかもしれないくだらない知識を詰め込むことに、何の意味があるか、ということです。また電気分解の実験では、その装置が電気回路であることを理解させない、表面的で現象論的な暗記教育のために、根本的な考え違いをする(例えば電気分解装置で構成される回路の場所によって流れる電流が変化すると考えたりする)子どもを作り出している、というようなことでした。要するに、大事なことを教えずに、ゴミ知識を詰め込んでいたということです。
そのような批判に全く答えずに、ゴミ知識の詰め込みと関係の無い進学率の高さを持ち出した教務主任には、教育のありかたを親と一緒に考えようとする姿勢は全くありませんでした。しかしこれは彼だけでなく、教育行政全体の体質です。
その詰め込みが、あるときに180度転換して「ゆとり」となりました。教育現場はどう受け止めたらいいかと戸惑い、親は不安を表明しました。その反対が余り強かったので、提唱者の寺脇とかいう官僚は、日本中行脚して説得してまわらなければなりませんでした。つまり、「これでは必要な学力がつかない」という親の不安を強引に押さえ込んで手抜き教育をごり押ししようとしたのです。どこが「国民の批判に折れて」ですか?全く正反対です。
「ゆとり教育」に反対する急先鋒として、東大の苅谷教授が論陣を張りましたが、私は彼の主張には同意できませんでした。それは、彼が「詰め込みかゆとりか」の2者択一を迫っているように感じたからです。私は長年つめこみを批判してきましたが、「ゆとり教育」なるものはそのアンチテーゼではありません。詰め込み批判を利用して、支配層が持ち出した下層階級切捨ての論理です。
その基礎となったイデオロギーはもちろん、新自由主義ですが、それを主張した連中は様々な顔を持っていました。作家としてろくな仕事をしていない三浦朱門、トンネルダイオード以外に何かまともな仕事をしたのか疑問の江崎玲於奈など。江崎は中央教育審議会で「ノーベル賞受賞者を増やす」ことが教育の目的であるかのような、妄言を吐きました。ノーベル賞受賞者の数と、普通の国民の教育レベルと、一体何の関係があるというのか?
こういう下らない連中が、役人の立案した切り捨て教育計画に、いい加減なおしゃべりでお墨付きを与えた。その結果、国民の反対を押し切ってごり押しされようとしたのが、「ゆとり教育」ですよ。
江崎は、たしかDNAがどうのこうのとも言っていましたね。DNAの本質も理解せずに、能力生得説の根拠に利用して、「劣った連中は何をやっても無駄だから、底辺で我慢しろ」という傲慢な連中が、DNAを愛好するようです。高校生に科学の面白さを教えると称するイベントで、生物組織を薬品で処理して、繊維状になったDNAを掬い取るという「実験」をあちこちでやっていました。こんなものは決まりきった結果が出るので、実験の名に値しないのですが、教材としても最低です。「ほらDNAが取れた!」と喜んだところで、それはDNAとしての機能を示さないのだから、何の意味もありません。「へえー、これがDNA?そんで、遺伝情報はどこに書いてあるの?」書いてありゃしないって!
どうもエセ科学愛好者にとっては、言葉だけが問題なようで、本質はどうでもいいようです。NさんもDNAを教えない生物教育はダメだといっていますが、一体DNAをどのように教えて、その知識をどのように発展させるのでしょうか?それによって、生命というものへの子供の理解はどのように進むのでしょうか?教壇に立ったこともあるようですが、教壇に立っても、このサイトをのぞいても、常にとおりすがりで冷やかしをするだけの体質を持っているように感じられますね。
話がそれましたが、私は苅谷氏の2者択一ではなく、詰め込みでも「ゆとり」と称する手抜きでもない、「全ての子供に最低限必要な学力をしっかりつけさせる」ことを主張してきました。しかしゴミ知識の詰め込みに熱中した時には、基礎にじっくり取り組む時間がありませんでした。「ゆとり教育」ではスカスカの内容の、必要な基礎さえ抜けている教科書を与えて、それが超えてはならない上限であるかのようなことを言ったり、反対に最低限であってそれ以上どれだけ教えてもいいかのようなことを言ったり、役人どもはごまかしつづけました。
最も基本的な原則で、どうしてそんなに混乱するのか?それは役人どもがはっきり口に出せない、裏の理由を隠しているからです。昔「貧乏人は麦を食え」と言った政治家がいましたが、教育行政の本音は「貧乏人はまともな教育を期待するな」です。そのため、教科書をギリギリに薄っぺらにして、より多くの努力を金持ちの子弟と「できる子」の教育に注ぐ、それが「ゆとり教育」の本質であることは、それを推進した連中自身がしゃべっているのです。
こう言う現実を前にして、文部官僚を美化して、「教育を幅広く議論」もへったくれもあったもんじゃない。