丁寧なご返事、かえって恐縮です。
もちろん、過去のこだわりさんとも、また人文学徒さんとも、私は論争などし
ようとはまったく考えていません。
今回のお返事を拝見して、私の中でやっと腑に落ちたことがあります。
それは、paulさんもおっしゃっていたことですが、「シンヒヨみたいだ」とい
うような、「新日和見主義批判」の言葉が、上級の方針と異なる活動上の力点を
主張する党員に対して、それを手っ取り早く退けるためのレッテル貼りに重宝に
使われていたらしい、ということです。私にはその種の経験がまったくないた
め、過去のこだわりさんの問題意識が、今ひとつ掴めずにお答えしていたように
思いました。私はもっと端的に「動揺分子」「日和見分子」「不満分子」などと
言われていましたから…。
東大闘争、もちろん絶対に必要な闘争だったと思います。『嵐の中に育つわれ
ら』を、私も何度も繰り返し感激しながら読みました。宮本委員長がときに直接
指導していたことは、川上徹『査問』(ちくま文庫版)の48頁から49頁にかけて
記されています。
私たちの世代にとって「新日和見主義」の代表者は、頭目とされた広谷俊二氏
ではなく、『嵐~』の末尾に文章を寄せていた川上徹氏なのです。彼は、情念に
訴える文章の書き手としては、相当なものだと思います。しかし彼には、「学生
はいずれ社会に出て、レーニンがいう『労働者インテリゲンツィア』を形成する
社会集団である」という確固とした認識が、当時決定的に欠けていたと思いま
す。東大闘争のような、長くても数年で終ってしまうような闘争と同じ感覚で、
目前の「社会変革」を受けとめていたような感じがするのです。
ですから、「新日和見主義批判」は、(もともと無内容であったばかりか)ど うにでも使える都合のよいマジックワードとして、「不満分子」を押さえつける ために、さらに無内容な用いられ方をしていたのであり、ことの本質は、11大会 を重要な転換点として、「人民的議会主義」の圧倒的重視へと全党の活動方針が シフトした、ということではないでしょうか。何も「新日和見主義批判キャン ペーン」の犠牲者たちこそが「大衆運動の重要性」を見逃さなかった点で「正し かった」、ということになるわけではないと思っています。その「大衆運動」と は、せいぜいいま述べた程度のものだったのですから…。
私も、本来寝るような場所でないところで、新聞紙にくるまって寝た経験があ ります。それからシュラフを買いました。結局、「月間」等では日に何度も繰り 返される「集中」の、第一限前の「党員集中」のさらに前に行われる「キャップ 集中」に寝坊しないため、わざわざ大学近くに下宿を移動させたりしました。そ のスタイルは、東大闘争当時のものをそのまま転用したものだったらしいです。
ただ、私は自分が「党活動の犠牲者」だったとは考えていません。あの時代の 話を別の党員に話したところ、「犠牲者だったんだね」と言われて驚いた経験が あるくらいです。学生の勉学保障問題を、長期的に見た革命運動の課題として在 学中から自覚的に追求して活動改善を訴え続けていた、それに対して、党の青学 方針が「コペ転」した後になって「不合理な活動スタイルに盲目的に従ったため 勉強できなかった可哀相な人」という見方をされるのが、いちばん頭にきまし た。
過去のこだわりさんや人文学徒さんとの議論に関連して、私の中でも、運動の 主たる担い手としての「市民」をどのように把握すべきか、よく分らないため に、教えていただきたいと思っているのです。現党中央は、本当に気安く「草の 根の運動」と言い過ぎて、中身はさっぱり実感できないからです。ただ、「市民 社会が成長した結果、旧来の労働者階級と資本家という『科学的分類』は過去の ものとなった」というのは、やはり違うだろうという感じです。大雑把に言っ て、社会主義社会の実現は、未だ労働者階級の歴史的使命なのではないか、と考 えている次第です。