50も過ぎて単身赴任を仰せつかり、その準備のために多忙になってしまったも のでろくろく確認もせずに書いてしまい大変失礼いたしました。私の間違えでした、 基礎知識が曖昧だとこういう問題を起こすという教訓です。ご批判甘受いたします。 しかし私は陰山先生が百マス計算を始めたとは書いておりませんのでそこは注意して ください。私は『導入した』と書きました。学力低下を実感した陰山先生が限られた 学習時間の枠の中で工夫して100マス計算を導入して成果を得た点が重要で、その指 導を受けた子供達は幸せだったろうと思います。
あらためて確認しました。陰山先生のホームページです、 http://www2.nkansai.ne.jp/sch/hpkage/。
私は歴史的な経緯については良く知りませんが、百マス計算は陰山先生が始める前 に既にあったことは知っております。ただ、私個人の好みから言えばマスの形で計算 をすることについてはあまり好きではありません。数式を見ながら計算するほうが良 いと感じておりますが、100マス計算によって子供達の計算能力が付くという実践か ら得た成果は評価します。
あて、私が指摘した『無内容』という点についてはどうなんでしょうか。私が大変 驚いたのは民主的教師が集まる日教組の大会において陰山先生の試みが無視されたと 知ったことでした。、『日本共産党の教育政策の根幹をなす部分」として、1970年代 初頭から一貫して「読み書き・そろばん等基礎学力の充実を」という形で主張してい た』のなら何故陰山先生の試みを評価することはしなかったのでしょうか?
私も水道方式は知っています。算数を理解するための教育としては大変良いものだ と思います。逆に文部省はこれを排斥しようとしたようですが、これは明らかに間違 えだったと思いますが面子の問題だったのでしょうか。子供の教科書を見て感じたの ですが、水道方式という言葉は使わなくとも、教科書には一部それが取り入れられて きたようには感じました。中途半端ではありますが。
『「事物の法則性」の理解へと橋渡しするのは、作文指導かな、と思ったものです。 言語操作の問題は、計算や漢字学習では賄えないからです。』とのことですね。私は 作文指導を否定する気はさらさらありませんが、作文学習をやるのは良いとして、そ れが『計算指導や漢字学習』を否定する根拠になるのでしょうか?
『それと、結構受験する子もいたので、その「乗り」であのプリントをやらせては いけないと危険も感じたものです。』とのことですが、このどこが危険なのかがわか りません。ここで言う受験は中学校受験のことを指しているのでしょうか?
そして最後に『私が一番感じたのは、特に遅れを実感しなければ、年齢であのプリ ントが威力を発揮する子の層は区別すべきではないかということでした。』と書かれ ていますが、この意味分かると思いますか?私にはまったく理解できません。
私が出来の悪い生徒だったときに自分である試みをしたことがあります。小学校も 高学年になったときに算数が出来ない自分に気づき、何とかしなければと考えた結果 計算力が無いことに気が付きました。そこで小学校低学年用の計算ドリルを買い、し こたま計算練習をしたことがあります。その結果、算数の時間の先生の説明がわかる ようになり、理解が格段に早まりました。その経験から「小学校の低学年」のうちに ある程度の計算力をつけることを授業に取り入れるのは大変に有効に機能するだろう ということはすぐに理解できましたので、陰山先生の取り組みは理にかなっていると 感じたものです。当然、そうした教育法を編み出した岸本先生もたいしたものだと感 じるわけです。
『受験する子にその乗りであのプリントをやらせてはいけない』というのも次のよ うな意味ならわかります。つまり、中学校の受験を目前にしている子供達は言わばで きる子供達です。彼らは計算練習の時期は既に終わり、より高度な理解のために勉強 をしているわけですね(それはそれで反復練習は付きまとうでしょうが)。上に書い た私自身のエピソードは私が出来の悪い生徒だったという点がポイントで、当然中学 校受験など考えてもいませんでした。