北野さん、有島さんの暴力革命についての最近の二つの投稿を読み返していま
す。私はお二人の内容に越えがたい大きな差があるとは思えません。
北野さんは議会に対して否定的であり院外の戦いに重点を置き暴力革命に対して積
極的に考えていられる。注目すべき点は中間層を引き寄せることについても注意を払っ
ているということです。ただ不明な点は能動的に暴力革命を推進すべきか受動的なの
かという点について不明なのでもっと深く展開していただきたいと思います。
有島さんは2月7日の投稿では共産党が国会の過半数を取った場合のことを例に出
されたが、9日には大衆闘争を権力者側が弾圧したりする場合に暴力革命もあるとい
う論でしょう。そこにはおずおずと暴力革命を認める「敵の出方論」という立場をとっ
ておられるのだと考えます。
共産党員と支持者のほとんどが暴力革命を否定し革命の平和的移行を疑問もな
しに信じきっている中で、お二人は貴重な存在だと思います。党内外では論外とされ、
タブーと思わされている本当は最も基本的且つ重要な問題を直視しなければならない
し、今日その問題と正面から取り組まねばならない時代に来ていると思われます。
暴力革命を否定する考えの中で重要なことはそれが「悪」であるかのごとく考える
道徳上の思想です。国家権力が武装した特殊な部隊、監獄というものによって守られ
ているという暴力を不道徳とは考えない反面、その暴力を打倒しブルジョアジーの権
力機構である国家を打倒する暴力を「悪」という観念を持つことに矛盾があると私は
考えます。
・・・・「・だが暴力は歴史上他のもう一つの役割」(悪の実行者たる以外の)、 「つまり革命的な役割を演じるということ、暴力は、マルクスの言葉を持ってすれば、 新社会をはらんでいるあらゆる旧社会の助産婦であるということ、さらに暴力は、そ れをもって社会的運動が自己を貫徹し、硬直し麻痺した政治的諸形態を粉砕する道具 であるということ、・・・。暴力の行使はすべて、それを行使するものを堕落させる からだ、と。しかもこのことが、勝利に終わったどの革命の結果でもあった高度の道 徳的・精神的高揚・・・・・・・・・。」(「反デューリング論}大月書店マルクス エンゲルス選集第14巻、332P)
エンゲルスはそのように書いています。
そうした意味で暴力革命についての不道徳的な意識を取り払う必要があるのではな
いかと私は考えます。これは消極的にではなく時がくれば積極的に行使しなければな
らないその思想的準備が必要ではないかと考えるのです。
あの、60年、70年の戦いの高揚期から、高度成長期が続き、バブルが崩壊して
14年が経ち革命運動は30年の低迷期を経験しました。
しかし恐慌的経済が長期的に続く中で日本の労働者の生活が非常に苦しくなり、完
全失業率が4.6パーセントという政府の発表が明らかに嘘であることを実感せざる
を得ないほどに失業者に都会は溢れています。私の経験では敗戦当時の苦しかった生
活に次ぐ苦しみを労働者が経験していると思います。そのような中で日本共産党が戦
いを放棄したということが非常に大きな苦痛を日本人民がなめているのです。又連合、
全労連という大きな労働組合が資本と戦わなくなったことが、客観的には60年安保
に劣らないほどの情勢を迎えているのに主体的には立ち上がれないという状況になっ
ています。
しかし長い革命的停滞期が終わりを告げようとしています。
ブッシュの戦争政策はアフガン侵略戦争を経て、イラク侵略戦争へと突入しさなが
らベトナム戦争を髣髴させる泥沼に陥る中で、戦争がイラン、朝鮮へと拡大されよう
としています。このイラク戦争の過程で帝国主義が二つのブロックに分裂しました。
日本、アメリカ、イギリスというブロックとフランス、ドイツなど西ヨーロッパのブ
ロック化という構図が出てきました。
私は過去の二回の世界戦争の歴史から今迎えようとしているのが第三次世界戦争で
あると考えないではおられません。
私は暴力革命論を具体的な世界と日本の情勢の推移から切り離して抽象的に考える
だけではなく、戦争と革命との関連で考えるのです。そうすれば革命情勢は否が応で
も近づいていてきていると思います。その予見にたって暴力革命についての討論が必
要と思うのです。