「導入した」という意味は、「教育界に導入した」という意味だと考えて
おりました。「授業に使用した」という意味では、とてもじゃありませんが、岸
本先生による開発からかなり時間が経過した陰山先生の試みが最初かどうか、
はっきりしないと考えていましたので…。もちろん、「教育」は、学校でだけ行
われているわけではありませんから…。
私の学生時代から、教科書裁判を支援するお母さん方の中では、遠山先生の試
みも、岸本先生の試みも、当初から随分注目されていたと思います。学習会など
では、プリントの現物が回覧されていたように憶えています。共同購入している
お母さんたちもいました。
私は、塾でバイトをし始めた頃(その塾は、補習と受験を兼ねた、小学2年生 から高校3年生までいる=つまり何でもありの、零細塾でした。私はそこで、小 学2年生から中学3年生までを担当していました。いわゆる有名私立中学・高校 受験者もいました)、何人かのこどもの「躓きの石」を捜すために随分悩んで、 岸本裕史『見える学力、見えない学力』だとか、岩辺泰史『ランドセルがはこぶ 風』だとか、三上満『眠れぬ教師のために』だとか、ややマイナーなところで は、故八杉晴実『かけこみ塾ふれあい日記』だとか、相当乱読した経験がありま す。もちろん、いわゆる学者先生(堀尾輝久・波多野誼余夫・故山住政巳)の著 書も、すべて岩波新書でしたが読んでいます。
これで推測がつくかとも思いますが、「百ます計算」を「年齢で区別して適用
する」という発想は、私が見ていた児童生徒のうち、ある年齢までは有効だった
が、それより上の年齢では、たまたま「計算力が弱い」こどもがいなかったせい
か、あまり意味がなかったということです。
また、作文指導について触れたのも、その脈絡であって、私は「計算指導や漢
字学習」を否定しているのではありません。
「無内容」ということについて、おっしゃっていることがよく分らないので す。私が述べたかったことは、「読み書きそろばんの重視」ということは、日本 共産党の常任幹部会委員を歴任し、宮本前議長の「秘書」といわれた小林栄三氏 の、確か(記憶だけによる)『科学的社会主義と民主教育』という新日本出版社 から出ている単行本(論集)でも、党の教育政策の基本として非常に強調されて いた事柄であり、それは「詰め込み教育」の弊害除去とは別のカテゴリーで論じ られていたように思う、だから、「共産党が詰め込み教育に反対して『ゆとり教 育』に似た主張をしたため、基礎学力が軽視された、という因果関係にはない」 という程度のことです。
日教組というのは、槇枝元文(?)氏等が中央執行委員長をなさっていた大組
合でしょう? その方針への苦情なら、当時の社会党、今の新社会党や社民
党に述べるのが筋ではありませんか。つまり、組合少数派であった日本共産
党や、ましてやその民主的改革を志向する「さざ波」サイトの論者に対して、批
判をするのは場違いではないかということです。党員教師(特にいわゆる「教研
型教師」)の中には、本当にマイナーなのに、フレネの「生活学校」等の試みを
学校で細々と実践している方もおられました。組合の方針や態度については、私
は教員でもなく、制度教育に近い場所にいたこともないので、よく知りません。
それを「無内容」といわれても、返答のしようがないのです。
また、あなたがおっしゃる日教組の方針についてどういう感想なり意見がある
かといえば、あなたが強調されている「基礎学力の重視、一定年齢層のこどもに
対する『訓練』に似た方法を用いた基礎学力習得の重要性」について、私は、正
面から反対しているわけではないのです。そして、日本共産党も同じだと思いま
すよと、前記小林氏の著書を例示したのです。
現に、斉藤孝氏らが、古典の名文の一節を音読により記銘させる(内容の深い
理解は、もっと成熟してからでもよい)学習方法を使って評判になっています
が、市販されている教材を見る限り、なかなかのものだと感じました。
ただ、忘れてならないと思うことは、とおりすがりNさんご自身が弱い計算力
を自ら克服された時代とは、こども自身の、教育に対する接し方や、学力・能力
に関する社会状況がかなり違ってきているということです。苅谷剛彦さんだった
と思いますが、従来の「学歴社会は崩壊した」論には罠があるという主張の中
で、高学歴親を持つ子とそうでない子との間で「勉強時間」における二極化とで
もいうべき現象が起きている、という仮説を述べられていました。
これを「学びからの逃走」と苅谷教授は表現しておられましたが、そういう現
実の中で、「すべてのこどもに基礎学力の保障を」という目標を実現するために
は、もう少し、「学ぶことの喜びの質」にこだわった取組みを深めなければなら
ないような気がするのです。例えば、斉藤孝さんが懇意にしておられるという和
田秀樹氏の主張などには、私は、(実用的ではあるけれど)かなり皮相な感じを
懐いています。ああいったことが「分かると嬉しい」という達成感が、こどもに
本当に必要なことだったような気はしないのです。翻って考えると、斉藤さんの
私塾にこどもを通わせている親たちも、一見基礎的なことをさせているようで、
実は相当「先を行っている」のではないかと思われてならないのです。
「受験の『乗り』であのプリントをやらせてはいけない」という危険というの
は、このことに関連します。「基礎学力の充実」が「教育ママ」のテーマになっ
てしまっている、という危険です。もちろん、ここでいう受験は、中学受験で
す。
本当にいろんな子がいろんな「躓きの石」を抱えているのです。
私が忘れられないのは、知人が教えていた小学3年生の子ですが、「直径8セ
ンチの2つの円を、一方の円の中心にちょうど他方の円の円周が重なるように並
べた場合、両方の円の中心を通り、一方の円の円周から他方の円の円周まで引い
た線分の長さは、何センチになるか」という図示問題が、どうしても解けなかっ
た子のことです。答えは12センチなのですが、この子は、紙に図を描いただけ
でなく、ボール紙で2つの直径8センチの円を作らせ、それを半分重ね合わせて
「問い」を説明しても、なお「16センチ」と答えるのです。円周で2円が接す
るようにしても、問題のようにしても、同じ「16センチ」だというのです。
「直径8センチの円」というのを、不変な円の個性のように考えて、これが重
なったり隣接したりしていたら、「8+8=16」と考えてしまうのです。私
は、「おそらくその子は、抽象的な『長さ』の概念を獲得していないのかも知れ
ない」と、当時は考えていましたが、自信はありません。
その時は、「直径8センチの円をボール紙で4個作って、2個ずつ、一方は
『問い』のように並べ、もう一つは円周で接するように並べた上で、その両端に
接線として定規を平行に添えて、定規で挟まれた間に1センチ四方のタイルを並
べさせ、その数を数えさせたらどうか。そうすると、タイルの数が4つ分違うか
ら、その違いはどこから生じたのかを考えさせてはどうか」と答えておきました
が、うまく行ったかどうか…。
むしろこの子が3年生になるまで、どんな学習環境にいて、教室ではどんな気
持ちで算数の授業を受けていたか、胸が痛みました。
私たちの時代であれば、「おまえ、馬鹿だなー」といわれても笑っていられる
「ガキ大将」的人間関係が成立していましたが、いまのこどもたちには、そうし
たゆとりや逃げ場はなく、自己に否定的イメージを「これでもか、これでもか」
と植え付けられ続ける環境だけがあるように感じています。だからこそ、「基礎
学力の充実」が「教育ママ」のテーマになどならないように、細心の注意を払う
必要があると思うのです。
脱線ですが、過去へのこだわりさん、ロム3さん、済みません、もうちょっと 待って下さい。